第58話 練習相手
五月の最初の日曜日、センターに千夏が来た。
あの日から一か月、千夏はスクールの大会の申し込みを全部取り下げたと聞いていた。
ラケットケースを背負って屋根のある練習場に入ってくると、一人でサーブの練習をしていた美咲の前に立った。
「美咲ちゃん」
「ちなつちゃん」
「今日から、あたしが相手する」
美咲はぽかんとしていた。
「……とっくん、また?」
「特訓じゃない。練習」
それから千夏は真ん中のコートの俺の方を見た。
「たくまは、口出さないで」
「口」
「美咲ちゃんに何も言わないで。あたしがやるから」
圭に「言うな」と言われて半年になる。
俺は美咲にほとんど何も言わずにきて、美咲は新しい言葉がないまま、四つの言葉を持ってコートに立っていた。
「……分かった」
千夏はうなずいた。
ベンチに座っていた圭が、ほんの一瞬だけ端のコートの方に顔を向けて、すぐに戻した。
千夏は父親の方を見ずに美咲の前でラケットを構えた。
「いくよ」
「……うん!」
美咲はよく分からないまま嬉しそうだった。
その日の練習が終わったあと、美咲が俺のところに走ってきた。
「おにいちゃん、ちなつちゃんが、あいてしてくれるって!」
「聞いてた」
「おにいちゃんは、口出さないって!」
「それも聞いてた」
「……おにいちゃん、さみしい?」
少し考えた。
「少し」
美咲は満足そうにうなずいて、また端のコートへ走っていった。
なぜ満足そうだったのかは分からない。妹に同情されるほどの顔はしていないつもりだった。
千夏の練習は変わっていた。
最初の日、千夏は俺の打ち方で打った。フォアハンドの少し高い打点。
バックハンドで深く打つときの回転のかけ方。ネットに出る前の半歩の間。
美咲が崩れた。
美咲は兄の打つボールを打ち返したことがほとんどない。
兄は美咲に言葉をくれる人で、ボールを打ってくる人ではなかった。
四つの言葉で兄の癖のボールを返そうとして、美咲は止まった。
千夏はネットの前まで歩いてきて、美咲に一つだけ聞いた。
「どうする?」
答えは言わなかった。
美咲はラケットを握ったまましばらく考えて、それからベースラインの後ろに一歩下がった。
千夏がまた兄の癖で打ち、美咲は下がった位置から打ち返した。
入った。美咲は自分の足もとを見た。
「……入った」
「うん」
「ちなつちゃん、いまの、どうして入ったの」
「知らない。美咲ちゃんが下がったからじゃない?」
「美咲、下がったの?」
「下がったよ」
美咲はまた自分の足もとを見た。
それから六月まで毎週日曜日に同じことが続いた。
千夏が俺の癖で打ち、美咲が崩れる。
どうする、と聞かれて美咲が考え、自分で何かを変える。
うまくいかないときも千夏は答えを言わなかった。
真ん中のコートで圭の球出しを受けていると、圭がときどき端のコートの方に目をやるのが分かった。
一つだけ言う人の娘は、一つだけ聞く人になっていた。
ある日曜日の練習の終わりに、美咲が千夏に聞いた。
「ちなつちゃん、なんで、おにいちゃんの打ち方、できるの?」
千夏はラケットをケースにしまいながら少し考えた。
「……ずっと見てたから」
「どのくらい?」
「美咲ちゃんがボール拾ってた頃から」
美咲は口を開けたまましばらく黙った。ボール拾いをしていた頃の自分を思い出している顔だった。
「じゃあちなつちゃん、美咲よりおにいちゃんのこと見てる」
「……そういう意味じゃない」
千夏はケースのファスナーを勢いよく閉めた。
俺は真ん中のコートで次の一球を待ちながら、聞こえないふりをした。
圭の球出しがその一球だけ少し遅れた。
一九九八年の七月の終わり、世田谷の会場は、俺が初めて勝った夏と同じように蒸し暑かった。
全国小学生テニス選手権に、今年は美咲が出る。
美咲は、兄の四つの言葉と、この三か月で自分で見つけたいくつかのことで勝ち上がった。
決勝の相手は関西の背の高い六年生だった。
フォアハンドの強打と、回転の多い高く跳ねるボール。去年の秋に美咲を止めたのと同じ種類のボールだ。
一ゲーム目の美咲は跳ねるボールを最後まで見すぎて打点を遅らせた。
二ゲーム目の途中で、美咲がベースラインの後ろで立ち止まった。自分の足もとを見た。
それから前に出た。
ベースラインの内側、跳ねたボールが上がりきる前の位置へ。センターで千夏とやったときは下がったが、今日は前に出た。
跳ね上がる前に当てたボールが、低く速く相手のコートの深いところに落ちた。
あれは俺の言葉じゃない。千夏の言葉でもない。
美咲が自分で選んだ一球だった。
四ゲーム目から相手が変えてきた。
高く跳ねるボールをやめて、短く低い回転のボールを美咲の前に落とす。前に出てくる足を止めるためのボールだ。
美咲は二本続けてネットにかけた。
三本目の前に、美咲はまた足もとを見た。
今度は前にも後ろにも動かなかった。短いボールが来るまで待って、そこから一歩だけ踏み込んだ。
高いボールには前へ。低いボールには待ってから前へ。
六対三。
美咲はネットの前で相手と握手をすると客席の方に振り返った。
俺ではなく、千夏の方にラケットを振っていた。
表彰式のあと、会場の出口で地元紙の記者が美咲を待っていた。
俺にからあげのことを聞いた、あの記者だった。
「丹羽美咲さん、優勝おめでとう。お兄さんに続いての優勝だね」
「ありがとう……ございます!」
「決勝は途中から前に出て打っていたね。あれは作戦?」
「はい! じぶんで、考えました!」
記者は手帳に書き込んだ。
「誰かに教わったことはある?」
美咲は少しも迷わなかった。
「ちなつちゃんの、おかげです!」
記者のペンが止まった。
「ちなつちゃん?」
「いっしょに、練習してる、おねえちゃん!」
「……お兄さんは?」
美咲は首をかしげ、それから何かを思い出した顔をした。
「……あ。おにいちゃんも」
記者は苦笑しながら手帳に何かを書き足した。横で父が口を押さえて肩を震わせていた。
千夏は少し離れたところでラケットケースのベルトを握っていた。顔が赤かった。
兄の名前を出し忘れてくれたのは、むしろ上出来だ。
駐車場の方から祖父が歩いてきた。
「美咲! でかした!」
俺が初めて優勝した年も、祖父はカップを抱えて誰より先に駐車場へ歩いていった。
今年のカップも、美咲が一度も持たないうちに祖父の腕の中にあった。
帰りの首都高で、父は出口を一つも通り過ぎなかった。二度目だった。
後ろの席で美咲は記者に言ったことを千夏に何度も話して聞かせた。おにいちゃんも、は毎回最後に付いてきた。
「ちなつちゃん、来年も相手してくれる?」
「……来年も出るなら」
「出る! 来年も勝つ!」
千夏は窓の外を見たまま少しだけ間を置いた。
「じゃあ、する」




