第57話 【千夏】隣
家に帰ると、お母さんが台所にいた。
あたしの顔を見ても何も聞かなかった。
目が腫れていたから、聞かなくても分かったんだと思う。
「ご飯、食べる?」
「……食べる」
お昼を食べていなかった。
センターから美咲ちゃんに送ってもらってそのまま帰ってきた。
食卓に座ると、お母さんがお味噌汁をよそって、あたしの前に置いた。
豆腐とわかめの、いつもの。一口飲んだら温かかった。
お母さんは自分の分もよそってあたしの向かいに座った。
しばらく二人で黙ってお味噌汁を飲んだ。
お父さんは協会の仕事で夜まで帰ってこない。
この家は昔からだいたい二人だ。
お母さんがお椀を置いた。
「で」
「……なに」
「琢真くんの、どこがいいの」
口の中のお味噌汁が全部出た。お椀の中に、それから少しテーブルに。
「っ……!」
むせた。お母さんは台ふきんを取ってテーブルを拭きながら、笑っていた。
「なっ、なに、急に」
「急じゃないわよ。五歳のときから、ずっと聞きたかったの」
「そういうんじゃない」
「そう?」
「そういうんじゃ、ないし」
お母さんは台ふきんをたたんで、もう一度笑った。
「じゃあ、今日は何で泣いたの」
あたしは答えずにお味噌汁の残りを黙って飲んだ。
お母さんが食器を洗い始めて、あたしは食卓に座ったまま、その背中を見ていた。
お父さんが遠征でいないあいだ、この背中があたしの家だった。
五歳の夏に公園でたくまと会った日も、この背中に「今日ね」と話した。
今日のことは話せなかった。話したら、また泣く気がした。
「千夏」
お母さんが振り向かずに言った。
「うん」
「お風呂、沸いてるから」
「……うん」
それ以上、何も聞かれなかった。
お母さんは聞かないところだけは、いつもお父さんと同じだ。
自分の部屋に戻ってベッドの上に座った。
床にラケットケースが置いてあった。
今日は本気のたくまと打った。一ポイントも取れなかった。
最後の一球だけ、ネットの前まで走って、ラケットの先で触っただけ。
それから、たくまの前で、美咲ちゃんの前で泣いた。
負けたから泣いたんじゃない。
負けるのは分かっていた。六対〇になるのも、半分くらいは分かっていた。
一ポイントくらいは取れるかもしれないと、少しだけ思っていたけど。
負けるのが分かっていて、それでも勝負したかったのは、たくまがどこにいるのかを確かめたかったからだ。
八歳でラリーが十回続いたとき、あたしはたくまと同じところにいると思った。
あの日は晩ご飯のとき、お母さんに同じ話を三回した。
でも違った。たくまはずっとあたしに合わせていた。
四年生の夏に気づいた。試合でフォアを打たないこと。あたしとやるときも手を抜いていること。
抜いてる、とたくまは言った。嘘じゃなかったのがあの日は一番悔しかった。
だから本気を出させたかった。
本気のたくまと同じコートに立って、同じボールを打ち合えれば、同じところにいられると思った。
今日、分かった。同じところには、行けない。
どんなに前に出ても、ネットの向こうが遠い。たくまのボールは、あたしの届かないところにしか来ない。
ベッドの上で膝を抱えた。
それでも隣にはいたい。同じところに行けなくても、隣には。
じゃあ、隣で何をすればいいんだろう。
窓の外で猫が鳴いた。
隣の家の猫で、五歳の頃から夜になるとこの窓の下で鳴く。
もうずいぶん年寄りのはずだった。
変わらないものも、ある。
変わったのは、隣の意味だけだ。
夜になっても答えは出なかった。
机の上に空き缶が置いてあった。
四年生の夏に自動販売機で買った、あたしの分の缶だ。
貸しは今日返してもらったから、もう持っている意味はないのに、捨てられなかった。
決めたことが一つだけあった。大会には、もう出ない。
出てもたくまのいるところには行けない。
あたしが大会で勝つのは、たくまに並ぶためだった。並べないなら出る意味はない。
小六の全国で、準々決勝で負けた夜、布団の中で最後のゲームを何回もやり直した。
あと一つ勝てば準決勝だった。準決勝のコートがどう見えるのか、あたしはまだ知らない。
スクールは続ける。テニスは嫌いじゃないし、速いボールももう怖くない。
今日あれだけ速いボールに前に出られたんだから、もう大抵のものは怖くない。
それに、センターには行く。美咲ちゃんがいる。
去年の秋、美咲ちゃんは関東の大会で、たくまの言ったとおりにやって負けた。
美咲ちゃんはたくまの言葉でできている。
あたしはたくまのボールを誰よりたくさん受けてきた。
たくまの癖も打ち方も、たくまが何を嫌がるかも、美咲ちゃんより知っている。
たくまの言葉じゃないものを美咲ちゃんに渡せるのは、たぶんあたしだ。
大会には出ない。でも、コートには行く。
それで隣にいられるかどうかは分からない。
台所でお母さんに聞かれたことがまだ耳に残っていた。
琢真くんの、どこがいいの。
それに答えるのは、まだやめておいた。
ベッドの横の棚にラケットを立てかけた。
明日から大会の申し込みを全部取り下げる。
スクールのコーチにはなんて言おう。
夜遅く、水を飲みに廊下に出ると、玄関の鍵が開く音がした。
お父さんが帰ってきた。
廊下の電気をつけたところであたしに気づいた。
前にも一度、この廊下だった。
お父さんの最後の全日本の次の春、たくまと本家のコートに来た夜、水を飲みに来たあたしを、お父さんは呼び止めた。
一つだけ言う。ちゃんと、見てたな。
お父さんがあたしにテニスのことで何かを言ったのは、それが最初で、今のところ最後だった。
「千夏」
今日もお父さんはあたしを呼び止めた。あたしは止まった。
お父さんは廊下の真ん中に立って、少しのあいだ何も言わなかった。
それからいつもの顔で言った。
「一つだけ言う」
あたしは空のコップを両手で持っていた。
「……最後まで、前に出てたな」
え、と思った。今日、お父さんはセンターにいなかった。
あたしが呼ばなかったから。
誰かに聞いたのか。美咲ちゃんか、たくまか、たくまの伯父さんか。
それとも、どこかで見ていたのか。
分からなかったし、聞いても答えてくれる気がしない。
一つだけと言ったら、この人は本当に一つしか言わない。
「……うん」
お父さんはうなずいたあたしの手からコップを取って、台所で水を汲んで戻ってきた。
それをあたしに持たせて、居間の方へ歩いていった。
水を飲んだ。コップの水は冷たかった。
部屋に戻ってベッドに入っても、その言葉が残っていた。
最後まで前に出てた。負けたのに。一ポイントも取れなかったのに。
目を閉じると、今日二回目の涙が出た。さっきのとは少し違う味がした。
目が腫れたまま朝になったら、お母さんに何か言われるかもしれない。
たぶん、何も言われない。
この家の人はみんな、聞かない人だから。
それでも念のため濡らしたタオルを取りにもう一度廊下に出た。
居間の明かりはまだついていて、新聞をめくる音が一回だけした。




