第56話 本気
四月の最初の日曜日、センターの端のコートには、三人しかいなかった。
俺と、千夏と、審判の美咲。
圭は来ていなかった。千夏が呼ばなかった。
ほかのコートも空いている。悠蔵が何も聞かずに午前中だけ人を止めてくれたらしい。
コートに入る前、千夏はベンチで靴ひもを結び直していた。
右を結んで、左を結んで、それから右をほどいてもう一度結んだ。
その横で美咲がスコアの紙に線を引いていた。
定規を持ってきていたが、線は少し曲がっていた。
ウォームアップのラリーは五分だけだった。
千夏とボールを打つのは二か月ぶりで、千夏のボールは美咲との特訓の分だけ明らかに速くなっていた。
どちらも何も言わなかった。
五分が終わると、千夏はボールを一つ持ってベースラインに戻った。
美咲はネットの横に折りたたみ椅子を置き、膝の上のスコアの紙を押さえて鉛筆を両手で握っていた。
「……六ゲーム先取で、いい?」
「いい」
コイントスは美咲がやった。
悠蔵の真似をして百円玉を親指で弾いたが、上手く弾けずに、コートの上を転がっていった。
誰も笑わなかった。
サーブは千夏からになった。
最初のゲームは千夏のサーブを全部叩き返して取った。
二ゲーム目、俺のサーブ。
ベースラインに立ってトスを上げた。
身体の全部を使った。足から腰へ、腰から肩へ、肩から肘へ、肘から手首へ。
圭に一つずつ言われて、一年かけて順番を覚えた身体の全部を。
ラケットがボールを打った。
ばん。
自分の打った音を、初めて外から聞いたような気がした。
ボールは千夏のサービスボックスの、センターラインの上に落ちた。
千夏は一歩も動けなかった。
ボールは千夏の横を通り過ぎて後ろのフェンスに当たった。
フェンスが揺れた。
美咲の鉛筆が止まっていた。
「……フィフティーン、ラブ」
声が少し震えていた。
千夏は振り返って後ろのフェンスを見てから前を向き、ラケットを構え直した。
一歩、前に出た。
二ゲーム目の途中から千夏はボールに触るようになった。
俺のサーブにラケットを当てる。
当たったボールはネットにかかるか、コートの外に飛んでいく。
ラリーになれば千夏のボールは返ってくるが、返ってきたボールを、俺は全部本気で打ち返した。
フォアハンド。
四年生の夏に「試合だとフォア打たないよね」と千夏が言った、そのフォアハンドだ。
フラットで、まっすぐ、速く。
千夏のコートの一番深いところ、千夏が一番届かないところへ。
千夏は走った。
届いた。
返したボールが浮いた。
叩いた。
千夏の横を抜けた。
ゲームカウントが二対〇になり、三対〇になった。
千夏は一ポイントも取れていなかった。
速さを落とすことはできた。一ポイントくらい、あげることはできた。
落とさなかった。
四ゲーム目。
千夏のフォアハンドが今日一番の速さで、俺のバックハンドの深いところに来た。
スクールのコーチの球より速い。
美咲との二か月がそのまま一球になって飛んできた。
俺は返した。同じ深さに、千夏のボールより速く。
千夏は下がらなかった。
速いボールに向かって前に出た。
四歳のとき、ばんという音を聞いてボールを見失った子が、今その音と同じくらい速いボールに向かって前に出ている。
ラケットはボールに届かなかった。
四対〇。
美咲の鉛筆の音だけが、コートに聞こえていた。
ゲームの合間にベンチで水を飲むときも、千夏は俺の方を一度も見なかった。
タオルで顔を拭き、ラケットのガットを指で直してすぐに立ち上がる。
最後のゲームも同じだった。
サーブ。千夏がラケットを当てる。ボールが浮く。
俺が叩く。
フォーティ、ラブ。
最後のポイントで、これまでで一番速いサーブを打った。
千夏はそれを返した。
今日一番速いサーブが、返ってきた。
ボールはゆるく浮いてネットの前に落ちてくる。
俺は前に出て、ボレーで千夏の反対側に落とした。
千夏は走った。
ネットの前まで。
ラケットを伸ばしてボールに触った。
ボールはラケットの先で小さく跳ねて、ネットまで届かずに千夏の足もとに落ちた。
二つ目のバウンドを、千夏は膝をついたまま見ていた。
美咲が鉛筆を置いて立ち上がり、スコアの紙を見た。
「……ゲーム、セット。ろく、たい……」
美咲はそこで口を閉じた。
少しして小さな声で言い直した。
「……ろく、たい、れい」
ネットの前で千夏と向かい合った。
千夏は膝の砂を払って立ち上がり、右手を差し出してきた。
握った手はラケットを握り続けていたせいで熱く、指の付け根が赤くなっていた。
千夏は俺の目を見た。
「……本気、だった?」
「本気だった」
千夏はうなずいて手を離した。
「返してもらった」
小さな声だった。
そう言うと千夏はネットの前にしゃがみ込み、膝を抱えて顔を埋めた。
肩が震え始めた。声は出していなかった。
美咲が椅子から立ち上がって、千夏の方へ走っていった。
千夏の背中に両手を当てて、何も言わずにさすっている。
俺はネットの反対側に立っていた。
怖くて泣いているのではない。それだけは分かった。
五歳の千夏は、公園で転がってきた弱いボールからさえ、足を引き上げて逃げていた。
今日の千夏は最後まで一球も逃げなかった。
負けたからか。一ポイントも取れなかったからか。
どちらも違う気がしたが、じゃあ何なのかと聞かれても、俺には答えられなかった。
ただ、一つだけ決めた。
もう、この子には本気を出さない。
手を抜くのでも、嘘をつくのでもない。
本気を出さないと決めて、それを千夏にも隠さない。
俺の本気は、この子を遠ざけるだけだ。
センターの向こうで昼を告げる町の放送が鳴った。
千夏はしばらく立ち上がらなかった。
昼過ぎ、美咲が千夏を送っていった。
二人で自転車を押してセンターの門を出ていく。
俺は一人でコートに残った。
コートにはボールが散らばっていた。
今日俺が打ったボールだ。
フェンスの下に、ネットの下に、ベースラインの後ろに。
一つずつ拾ってかごに入れていった。全部で三十七個あった。
かごを持って倉庫に戻しに行くと、扉のところに、誰かが立っていた跡があった。
コンクリートの床に、靴の形に土が落ちている。大人の靴の大きさだった。
今朝、門と倉庫の鍵を開けたのは俺だ。正月に悠蔵から預かった鍵だ。かごを出したあと扉は閉めておいた。
その扉が、手のひら一枚分だけ開いていた。




