↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
思春期・千夏と美咲

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
55/142

第55話 中二の春に

 一九九八年の一月、冬休みが明けて最初の日に廊下で千夏とすれ違った。

 千夏は立ち止まって俺を見上げた。


「……また伸びた」


「冬休みの分」


 声がかすれた。去年の秋から声が変わり始めていた。

 高い声と低い声のあいだを行ったり来たりして、朝はまだ出るのに、夕方になるとひっくり返る。


 背はこの一年で十センチ近く伸びた。

 四月に合わせた詰め襟の袖からは、もう指がすっかり出ている。

 三年で合うように、と母が買った制服は、一年もたなかった。


 千夏は俺の頭のてっぺんのあたりを見ていた。

 入学式の朝は目の高さがほとんど同じだったのに、今は千夏が顔を上げないと目が合わない。


「一年で、こんなに違うんだ」


「成長期、らしい」


「あたしも、成長期なんだけど」


 千夏も伸びている。ただ、俺ほどではない。


 身体の差はこれから毎月開いていく。

 STATUSのパワーの経験点は、この半年でそれまでの一年分より多く入っていた。


 千夏はしばらく黙って俺を見上げていた。

 何かを測っているような目だった。


「……チャイム鳴る」


 千夏はそれだけ言って五組の方へ歩いていった。

 廊下の窓から冬の日差しが斜めに入っていた。


 その日の英語の授業で、教科書の本文を一人一文ずつ読んでいって、俺の番が来た。


「アイ、ハヴ、ア――」


 声がひっくり返った。アの音だけが一オクターブ上に飛んでいった。


 教室が静かになって、それから後ろの方の誰かが吹き出した。

 英語の先生は何事もなかったように言った。


「はい、もう一回」


「アイ、ハヴ、ア、ドッグ」


 今度は低い方に落ちた。犬を飼っている声には聞こえなかったと思う。


 高校で英語を話せるようになるには、まず声が落ち着く必要がある。

 順番があるらしい。


 二月の夕方、センターのベンチで千夏が隣に座った。


 練習が終わって、ほかの子たちは帰っていた。

 圭も美咲を連れて先に本家の方へ行っている。


 千夏はラケットを膝の上に置いて、しばらく何も言わなかった。


 コートの照明が、一つずつ消えていく。

 最後の一つが消える前に、千夏が口を開いた。


「四月」


「うん」


「本気で、勝負して」


 千夏は前を向いたままだった。


「手、抜かないで。フォアも打って。全部、本気で」


 四年生の夏、自動販売機の前で千夏は「いつか本気出させるから」と言った。

 あれから三年半。


 千夏は市で、県で、関東で勝ってきて、全国のベスト8まで行った。

 それでも俺に本気を出させるほどにはならなかった。


 なぜ四月なのかは聞かなかった。


 今年の春が最後だ。

 来年になれば差はもっと開き、再来年には勝負の形にすらならない。


 廊下で俺を見上げていた千夏の目を思い出した。


「それと」


 千夏は鞄から空き缶を出した。

 色の褪せたジュースの缶で、四年生の夏に千夏が自分の分に買ったのと同じ銘柄だった。

 あのときの缶そのものなのかは分からない。


「貸し、返してもらう」


 本気を出したら返して。あのとき千夏はそう言った。


 答えは決まっていた。千夏には嘘をつかない。

 手を抜いているのかと聞かれて、抜いていると答えた。


 本気を出せと言われたら、出す。


「いいよ」


 千夏は初めてこちらを向いた。


「四月の、最初の日曜」


「うん」


「センターの、端のコート」


「うん」


「お父さんは、呼ばない」


 最後のコートの照明が消えた。千夏は空き缶をまた鞄にしまった。


 次の日から千夏は俺と打たなくなった。


 センターには毎日来た。

 ただし屋根のある練習場の端のコートで、美咲とだけ打った。


「美咲ちゃん、もっと速く」


「え、これ以上?」


「もっと」


 もうすぐ五年生になる美咲が、もうすぐ中学二年になる千夏の球を必死に返していた。

 千夏は自分の球の速さを上げ続けた。


 あの冬に俺が千夏にボール一個分ずつ速くしていったのとは逆に、今度は千夏が自分で自分の速さを上げていく。

 それも一個分ずつではなく、毎日二個分、三個分。


「ちなつちゃん、こわい」


 美咲が半泣きで言った。


「ボールが?」


「ちなつちゃんが」


 千夏は笑ってまた構えた。


「もう一回」


 勝負の前は打たない、と千夏が決めたので、俺は真ん中のコートから端のコートを遠くに見ていた。

 千夏は一度もこちらを見なかった。休憩のときも水筒を持って美咲の隣に座った。


 三月に入る頃には、千夏の速いボールを返す美咲が半泣きではなくなっていた。


 ボールを最後まで見て、足を動かして、真ん中に戻って、肘を先に出す。

 四つ全部を千夏の速い球の中で崩れずにやっている。


 千夏の特訓の相手を一か月させられて、一番上手くなったのは美咲だった。


 圭がベンチから端のコートの方を見ていた。

 見ていたのは千夏ではなく、美咲の方だった。


 ある日、特訓の帰りに美咲が俺の部屋に来た。


「おにいちゃん」


「うん」


「ちなつちゃん、なんであんなにがんばってるの」


 答えられなかった。

 それは千夏が自分で言うべきことだった。


「四月に、分かる」


「四月に、なにがあるの」


「日曜日」


 美咲は首をかしげたまま部屋を出ていった。


 四月の最初の日曜日の前の晩、布団の中で【STATUS】を開いた。



 ■基礎能力▽

 パワー    D 57 / 58▽

 テクニック  D 56 / 57▽

 コントロール D 57 / 57▽

 スピード   D 59 / 60▽

 スタミナ   D 57 / 58▽

 レスポンス  D 59 / 60▽



 六つともD。


 全力を出したことがない。

 小学生の大会では一番低い項目だけで戦い、中学の全国ではバックハンドだけで戦った。

 練習では相手に合わせた速さで打つ。


 全部の項目を全部同時に、一番上まで使って打ったボールがどれくらいの速さになるのか、自分でも正確には知らない。

 遅くはないはずだ。四歳の千夏が全日本の客席で見た、父親のサーブ。


 ばん、という音がして、ボールが見えなかった。

 あの速さに近いかもしれない。


 その怖さを明日は俺が千夏の目の前に置くことになる。


 手を抜くことはできる。

 速さを少し落として、フォアを少し甘くすれば、千夏は何ポイントかは取れる。

 そして千夏は気づく。


 ボール一個分ずつ黙って速くしていたのが美咲にばれた、あの冬と同じことになる。

 あのとき、嘘をつけばこの子は二度と俺のボールを信じないと思った。


 今も同じだ。手を抜けば、千夏は二度と俺のボールを信じない。


 それに、明日は貸しを返す日だ。本気を出したら返して。

 本気でなければ、返したことにならない。


 考えるのは明るいうちに済ませておくべきだったが、それだけはもう決まっていた。


 本気を出す。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。