第54話 コピーの壁
一九九七年の十一月、関東の小学生大会で美咲が準決勝に出た。
会場は埼玉の大きな公園の中のコートで、十一月の風は冷たかった。
美咲は試合の前まで母の膝掛けにくるまっていた。
部は十二歳以下で、出ているのはほとんどが五年生と六年生だ。
小学四年生の美咲は市でも県でも勝ってここまで来た。
相手は埼玉の五年生だった。俺はフェンスの外から見ていた。
美咲のテニスはこの三年で俺が言ったことでできている。
ボールを最後まで見る。足をボールに合わせて動かす。
打ったら真ん中に戻る。肘を先に出す。
一つずつ言ってきたことを、美咲は一つも捨てずに全部やる。
一ゲーム目は美咲が取った。
二ゲーム目から相手の打ち方が変わった。
回転をたっぷりかけた、高い山なりのボール。
バウンドしてから大きく高く跳ね上がる。
美咲はボールを最後まで見た。
見て、見て、跳ね上がったボールが落ちてくるのを待って、打とうとした。
打点が遅れた。
美咲の肩より高いところで跳ねたボールは待っているあいだにもう後ろに来ていて、返した球はネットにかかった。
次も同じだった。
美咲は首をかしげていた。言われたとおりに最後まで見ているのに。
跳ねるボールの打ち方を俺は美咲に一度も言ったことがなかった。
山なりのボールを打ってくる相手と、美咲がまだ当たったことがなかったからだ。
美咲はベースラインの後ろで立ち止まっていた。
ボールを最後まで見る。その一つ目が今、美咲の足を止めていた。
四対六。
握手のとき、美咲は相手の顔を見なかった。
会場の裏の、自動販売機の横のベンチで美咲は泣いていた。
母が探しに行こうとしたのを、俺が代わった。
美咲はラケットケースを両腕で抱えている。
隣に座ると、美咲はしばらくしゃくり上げてから、ラケットケースに顔を埋めたまま言った。
「おにいちゃんの言うとおりに、したのに」
しゃくり上げる合間にもう一度言った。
「ぜんぶ、やったのに」
答えは分かっていた。言えば一言で済む。俺は口を開いた。
「美咲、ああいうボールは――」
そこで止めた。
言えば、美咲は五つ目として覚える。
次の試合で跳ねるボールが来たら言われたとおりにそうする。そして俺が言っていない別のボールが来たときに、また同じように止まる。
今日美咲が勝てなかったのは、俺の言葉が足りなかったからではない。俺の言葉しかなかったからだ。
口を閉じると美咲が顔を上げた。目が真っ赤だった。
「……なに?」
「なんでもない」
「いま、なんか言おうとした」
「言おうとして、やめた」
「なんで」
「……分からない」
本当に分からなかった。言わないのが正しいのか。
言わないでどうすればいいのか。
美咲はじっと俺を見ていたが、やがて鼻をすすってまたラケットケースに顔を埋めた。
公園の壁の前で、藤代圭は俺に肘のことしか言わなかった。
その一つで俺は三つ直した。
俺は美咲に一つずつ四つ言って、美咲は四つともそのまま持っている。
帰りの車の中で美咲はずっと黙っていた。
助手席には祖父が乗っていた。
今日は祖父の運転手付きの車ではなく、父の車だ。
孫の試合を見に行くのに会社の車は使わない、と祖母に言われたらしい。
高速道路に乗ったところで美咲が後ろの席から身を乗り出した。
「じいじ」
「なんだ」
「じいじの、もっと強く打てってやつ、ためしてみる」
祖父が勢いよく振り返って、シートベルトが首に食い込んだ。
「おう、そうだ! それだ! 強く打てば跳ねる前に抜ける! 美咲、強く打て!」
「うん」
美咲は真剣な顔でうなずいて、それから少し考えた。
「……でも」
「でも?」
「ばあばが、じいじの言うことはどっちも聞かなくていいって言った」
本家の縁側で「もっと強く打て」「強く打つな」と両方言われて固まった美咲に、祖母が麦茶を渡しながら言った言葉だった。
美咲はそれをまだ持っていた。
祖父は口を開けて、閉じて、前を向いた。少しして窓の外を見たまま言った。
「……ばあさんの言うことも、たまには聞かなくていい」
「それ、ばあばに言っていい?」
「言うな」
父が運転しながら肩を震わせていた。
美咲はしばらく考えてから俺の方を見た。
「おにいちゃんの言うことは?」
あの縁側で美咲は祖母に同じことを聞いて、「それは美咲ちゃんが決めなさい」と言われていた。
あのとき、美咲は答えがよく分からない顔をした。今日も同じ顔をしていた。
俺は何も言わなかった。
美咲はまた窓の外を見た。高速道路の灯りが美咲の顔の上を一つずつ流れていった。
家に着くと美咲はまっすぐ自分の部屋に入っていった。
夕飯のときもあまりしゃべらず、母が美咲の好きなからあげを一つ多く皿に乗せても、黙って食べた。
一つ多いのには、気づいていないふりをしていた。十歳でもそのくらいの芸当はできる。
翌週の日曜日、センターのベンチで圭に聞いた。
圭はいつものように腕を組んでコートを見ていた。
屋根のある練習場では、美咲が一人でサーブを打っていた。
「美咲に、何を言えばいいですか」
圭はすぐには答えず、美咲のサーブを三本見てから言った。
「一つだけ言う」
「はい」
「……言うな」
それだけだった。
「言わないで、どうすれば」
圭は答えなかった。
この人は最近、二つ目を飲み込むのがうまくなった。
美咲のサーブが一本ネットにかかった。
美咲はボールを拾いに行って、戻ってきて、また打った。
今度は入った。
圭はそれを見届けてから屋根のある練習場の端に一瞬だけ目をやった。
千夏が一人で壁打ちをしていた。圭はすぐに目を戻した。
この人は娘に何も言わない。
公園の壁の前でも、同じ敷地の中にいる今も、一度も。
今俺に「言うな」と言った人が、自分の娘にはずっとそうしている。
お父さん、たくまには言うんだね、と千夏は七月の帰り道に言った。
美咲は兄に全部言われて、先週の準決勝で止まった。
言わないのと、言いすぎるのと。その間のどこで止めればいいのかは、聞くのをやめておいた。どうせ返ってくるのは一つだけだ。
美咲のサーブがまた入った。
今度は打つ前に首を一度かしげてから打っていた。
その日、美咲はいつもより遅くまでセンターに残っていた。
一人で屋根のある練習場の壁に向かって、ボールを高く上げては、跳ねたところを打っている。
下がって打ったり、前に出て打ったり。誰にも何も言われずに。




