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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
思春期・千夏と美咲

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第53話 一度だけの全国

 七月の半ば、センターのベンチに圭が封筒を置いた。


 協会の名前が入った封筒で、去年の暮れに国際遠征の話を持ってきたときと同じものだった。

 中身は申込書だった。全日本ジュニアテニス選手権、十四歳以下の部。

 八月、大阪。

 予選の扱いも含めて、手続きは協会の方で済ませてあるという。


「一つだけ言う」


 圭はベンチに座ったままコートの方を見ていた。


「……試合を見せろ」


 前置きもなかった。


 申込書を手に取った。


 大会はミッションのためにだけ出る。小三の春、市の大会の夜にそう決めた。

 今のミッションの一覧の一番上は、国際大会に出場する、だ。


 全国の大会はもう一覧になく、同年代が相手では経験点も少ない。


 割に合わない。それでも、圭は練習の俺しか見ていない。

 試合では相手が負荷を決め、知らないボールと知らない場面が来る。

 この人が見たいと言うなら、俺に見えていない何かが試合の中にあるということだ。


「出ます」


 圭はうなずいた。縛りを入れるのか、とは聞かなかった。


 その夜はSTATUSを開いて縛りを決めた。

 今一番低いのはバックハンドだった。


 小学生の頃から低いものを順に上げてきた。

 フォアで回り込める場面が増えたせいで、いつの間にかバックハンドが取り残されていた。


 今度は全部バックハンドで打つ。フォア側に来たボールにも回り込んで。


 決め終えたときには十時を五分過ぎていた。

 圭には黙っておくことにした。


 八月、大阪へは新幹線で行った。


 家族と圭と。千夏は今年は来なかった。

 スクールの合宿と重なったらしい。


 新幹線なら父が道を間違えることはない。

 そう思っていたら、東京駅の乗り換えで一度、違うホームに上がった。


「あなた」


「……こっちじゃないのか」


「こっちは東北新幹線ですよ」


 父は黙って階段を下りた。首都高でなくても道は間違えられるらしい。


 座席に着くと美咲が駅弁の袋を膝に置いた。

 三つ入っていた。


「美咲、それ全部食べるんですか?」


 母が聞くと美咲は袋を抱え直した。


「うん。ぜんぶ、ちがう味だから」


 一つ目は名古屋に着く前に終わり、二つ目は関ヶ原のあたりで終わった。

 三つ目の蓋を開けたとき、美咲は窓の外を見ていなかった。


「美咲、富士山はもうとっくに過ぎましたよ」


「え」


「行きの一番いいところ、ずっとお弁当を見てましたねえ」


「……かえりに、見る」


 母は止めなかった。旅先だから、というのが母の止めない理由だった。


 圭は窓際の席でずっと外を見ていた。

 膝の上に手帳が一冊あって、ときどき何かを書いている。


 新大阪に着く頃には、美咲は三つ目の弁当を食べ終えて眠っていた。


 その夜、宿の窓から会場の方を見ると、照明が一つだけついていた。

 大会の前の晩の、誰もいないコートだ。


 宿を出て少し歩くと、会場の外のフェンスのところに人影が一つあった。


 圭だった。

 フェンスに片手をかけて、明かりのついた誰もいないコートを見ていた。


 声はかけなかった。

 圭はしばらくそのまま動かなかった。手帳は持っていなかった。


 世界の百十八位まで行って、百位の壁は越えられなかった人だ。

 その人が今、自分が打つわけでもないコートを、夜に一人で見ている。


 やがて圭はフェンスから手を離し、宿の方へ歩き出した。

 俺は植え込みの陰に下がって、それが通り過ぎるのを待った。


 気づかなかったのか、気づかないふりをしたのか。

 足音は一度も止まらなかった。


 全日本ジュニアの十四歳以下の部には、全国の予選を抜けた中学生が集まる。

 小学生の全国とはボールが違った。身体が大きくなった分だけ重く、回転も速さも一段上がっている。


 中二の上位の子のサーブは、大人のボールに近かった。


 俺は全部バックハンドで打った。


 一回戦の相手は、最初は首をかしげていた。

 フォア側に打ってもバックハンドで返ってくるので、もっとフォア側に打つ。


 それでも回り込まれる。

 三ゲーム目あたりから、相手はフォア側のさらに外、サイドラインぎりぎりを狙うようになった。


 届いた。走れと言われて三か月で、スピードはDに入っていた。


 二回戦も三回戦も同じだった。フォア側を狙われて、回り込んで返す。

 返したボールが相手のいないところに落ちる。


 準決勝のあたりで客席の一部がざわめいた。


「あの子、フォア打たないな」


「打てないんじゃないか」


「打てないで、ここまで来るか?」


 決勝の相手は中二の、関西の第一シードだった。

 準決勝を見ていたらしい。最初のポイントからフォア側の一番外だけを狙ってきた。


 一セット目は六―三で取った。外を狙われるのは一回戦から同じだ。


 二セット目から外の球に短い球が混ざった。

 フォア側の、サービスラインより手前。回り込むには前にも横にも走らなければならない。


 届いても返すだけになった。

 返すだけのボールを相手は前に出て叩いた。


 客席では美咲が、相手のいいボールにまで「ナイス!」と言っていた。

 母が止めて、一ゲームもたなかった。


 四―六。セットを落とした。


 セットの間のベンチでタオルを顔に当てた。

 フォアで打てば、あの短い球は一歩で終わる。


 打てば勝てるだろう。その代わり、バックハンドに一番重い負荷がかかる試合を自分で捨てることになる。

 負ければ失うのは優勝だけだが、圭に見せるはずの試合も一緒に終わる。

 見せろと言われたのは、楽に勝つ試合ではないはずだ。


 圭は客席で手帳を開いていた。


 グリップをバックハンドの厚さに握り直した。


 三セット目はボールではなく短い球を打つ前の相手を見た。

 相手は短い球の前だけ、ラケットを引く途中で一度右の肩を開く。二セット目に何度も見た癖だ。

 肩が開いたらボールより先に走り出す。


 五―五から自分のサービスゲームを守って、六―五。

 相手のサーブで審判がコールした。


「サーティ、フォーティ」


 マッチポイントだった。


 サーブはバック側に来た。深く返す。

 相手はそれをフォア側の外へ流した。回り込んで、バックハンドで返す。


 浅くなった。


 相手が前に出てくる。ネットの手前で右の肩が開いた。


 ボールが出る前にもう走り出していた。

 ボールには向かわず、ボールが流れていく先へ、サイドラインの外までまっすぐ走った。

 相手の球はフォア側のサイドラインぎりぎりに角度をつけて落ちた。角度のついた球は弾んでからも外へ逃げていく。

 先に着いて待っていた俺のバックハンドの側に、ボールの方から入ってきた。


 振った。


 ボールはネットに詰めた相手の横を抜けて、反対側の角に落ちた。


 六―三、四―六、七―五。


 握手をして客席を見上げた。

 家族の席の少し上に圭が腕を組んで座っていた。

 表情は試合の前と何も変わっていない。


 大会のあいだ、あの人はずっと手帳に何かを書いていた。

 ボールが飛ぶたびではなく、俺が走り出すたびにペンが動いていた気がする。


 帰りの新幹線は夕方の便だった。


 座席に着いてからSTATUSを開いた。

 バックハンドの経験点は、一回戦から準決勝までの四試合を合わせたより決勝の一試合の方が多く入っていた。

 割に合わない、は決勝の相手には当てはまらなかった。


 父と母は疲れて眠っていた。美咲は行きに見逃した富士山を見るために窓に張りついている。


 通路を挟んだ隣の席に圭がいた。手帳は閉じて膝の上に置いてある。

 圭が窓の方を見たまま言った。


「……もう出なくていい」


「試合には、ですか」


 圭はうなずいた。


「練習で、全部見る」


 それだけだった。


 この人は最初の一ゲームで気づいていたはずだ。俺がフォアを一度も打たないことに。

 セットを落としても打たなかったことにも。


 気づいていて、聞かなかった。

 聞かれたら答えられない。STATUSのことも、経験点のことも言えない。


 全国で勝てる子がなぜ大会に出ないのか、周りの大人には説明できない。

 出ない理由を、この人が引き受けてくれた。


 静岡を過ぎたあたりで、窓に額をつけて眠っていた美咲が目を開けた。


「……ふじさん、まだ?」


「もうすぐ」


「見えたら、おこして」


「見るのは美咲だろう」

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