第6話 初めての熱
年の瀬の夜だった。
身体がおかしい。
最初に気づいたのは【STATUS】を開いたときだった。
文字が揺れている。いや、揺れているのは文字ではなく、俺の視界の方だ。
頭が重い。
首の後ろが熱い。
手足をばたつかせようとしても力が入らない。
熱だ。
「……琢真?」
母親が俺の額に手を当てた。
その手がすぐに離れた。
「あなた。あなた、ちょっと来て。琢真、すごく熱い」
父親が居間から走ってきた。
体温計が脇の下に差し込まれる。水銀の細いガラスの体温計。
しばらくして引き抜かれ、父親が蛍光灯にかざした。
「……九度、二分」
母親が息を呑む音がした。
その夜は長かった。
熱は下がらなかった。
母親は濡らしたタオルを何度も替え、父親は電話帳をめくって年末でもやっている病院を探した。
俺は布団の中で【STATUS】を開いていた。
揺れる視界で項目を一つずつ確かめる。
基礎能力。ショット。コート適性。特殊能力。経験点。
体力、という項目は、なかった。
HPのゲージもない。状態異常の表示もない。
テニスをするための能力はサーブの回転の種類まで細かく数値になっているのに、今この身体がどれだけ危ないのかを示す数字は、どこにもなかった。
ただ、基礎能力の左の数字がいくつか減っていた。
パワー G 1 / 2
スタミナ G 1 / 2
昨日までどちらも二だった。
右の上限はそのままで、左の今の値だけが一つずつ下がっている。熱は天井を残して、床だけを削っていった。
テニスにはHPは要らないということか。
命には要るのだが。
経験点は一つも入っていなかった。
当然だ。今日は一度も身体を動かしていない。動かせない。
半月ほど前に始まったばかりの十倍粥も、今日は一匙も喉を通らなかった。
丸一日、経験点ゼロ。
経験点というものを知ってから、初めてのことだった。
……いや。
今、考えるべきはそこではない。
熱で鈍った頭の中に一つの考えが浮かんで、居座った。
最終ミッションには、こう書いてあった。
四大大会全制覇。期限、三十歳。失敗ペナルティ、心停止。
では、その前は?
三十歳まで生きられるとは、どこにも書いていない。
あの画面が保証しているのは「失敗したら死ぬ」ということだけだ。「成功するまで生かしてやる」とは一言も言っていない。
ミッションがあるから大丈夫だと、俺はどこかで思い込んでいた。三十歳までは何があっても時間はあるのだと。
赤ん坊は熱で死ぬことがある。
前世の知識として知っている。知っていたはずなのに、考えたことがなかった。
怖かった。
三十歳で死ぬと告げられたときより、ずっと怖かった。
三十年は遠い。今夜は近い。
人間の恐怖というのは、どうも距離に反比例するらしい。
夜中に父親が車を出した。
後部座席で母親に抱かれている。窓の外を街灯が流れていく。
どこかの家の窓からテレビの音が漏れていた。紅白だろうか。年の瀬の、にぎやかな歌声。
休日診療所は明かりが半分落とされていた。
待合室には俺と同じように母親に抱かれた子どもが三人。どの子もぐったりしている。
「丹羽琢真くん」
白衣の医者は眼鏡の奥の目が眠そうだった。
俺の喉を覗き、胸に聴診器を当て、腹を押し、首の後ろを触る。
「この月齢。ほかに症状なし。熱だけ高い。……突発性発疹でしょう」
「とっぱつ……」
「高い熱が三日ほど。下がったら身体に赤いぶつぶつが出ます。出たら大丈夫。赤ちゃんが一度はかかる、よくある病気です」
母親の肩から目に見えて力が抜けた。
父親は医者の言葉を手帳に書き取ろうとして、胸ポケットにペンがないことに気づき、結局すべて口の中で復唱していた。
よくある病気。
帰りの車の中で俺はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
よくある。一度はかかる。大丈夫。
そうか。
そういうものか。
安心したとたん猛烈に眠くなった。
熱は医者の言ったとおり三日続いた。
その三日間、父親は仕事を休んでいた。年末年始の休みがそのまま看病の日々になった。
元日の朝、電話が鳴った。
父親が受話器を取る。
「……ああ親父。明けましておめでとう。……うん。それがさ、琢真が熱出して。……いや、医者はよくある病気だって。……うん。だから今年は本家行けない。悪い」
受話器の向こうから大きな声が漏れてくる。
内容までは聞き取れない。けれど声の大きさだけは布団の中まで届いた。
「……うん。……うん、分かった。治ってからでいいんだな。……ありがと」
父親は受話器を置いてふうと息をついた。
「親父、なんて?」
「来られんのかって。それだけ言ってしばらく黙って、それから治ってからでいいって」
「お義父さん、琢真に会うの楽しみにしてらしたのに」
「まあ、また機会はあるさ」
本家。
父親の実家だ。
どんな人たちがいるのかは、まだ知らない。
知る機会はこの熱のせいで少し先に延びた。
二日目の昼、母方の祖母が来た。
電話で様子を聞いて居ても立ってもいられなくなったらしい。
同じ市内でも反対の端で、正月ダイヤの電車とバスを乗り継いで一時間近くかかる。そこを風呂敷包みを抱えてきたという。
包みの中身はゴムの氷枕と、りんごと、おろし金だった。
「熱のときはね……すりおろした、りんご。昔から、これ」
祖母は台所でりんごをすりおろし始めた。
しゃり、しゃり、という音がゆっくりと続く。母親と同じ速度だった。
すりおろしたりんごがスプーンで口に運ばれる。
冷たくて、甘くて、少しだけ酸っぱい。熱い喉をするりと落ちていった。
美味い。
この何日かで初めて美味いと思ったものだった。
祖母は俺の額の汗を拭きながら母親に言った。
「あなたもね、一歳の前に……同じ熱を、出したのよ。三日、下がらなくてね。お父さん、仕事を放り出して……夜中に、病院の前を、うろうろしてたわ」
「お父さんが?」
「そう。あの人、選挙のときより青い顔してた」
母親が小さく笑った。
この三日間で初めて聞く母親の笑い声だった。
祖母はそれ以上何も言わなかった。
ただ、りんごをもう一つすりおろして帰っていった。
その夜、襖の向こうから父親と母親の声が聞こえた。
「……俺、何もできないな」
「そんなことないですよ」
「医者に連れてって、あとは待つだけだろ。熱を代わってやることもできない。銀行の仕事なら書類揃えれば何とかなるのに」
「あなた」
「分かってるよ。分かってるけど」
しばらく沈黙があった。
「……あいつが元気になったら、もっといろいろ一緒にやってやりたいんだ」
「元気になりますよ。よくある病気ってお医者さまも言ってましたから」
「よくある、な。よくある。うん」
襖の向こうで、どちらかが寝返りを打つ音がした。
二日目の夜更け、父親は俺の布団の横に座っていた。
手にはあの冊子があった。
融資事務取扱要領。
「……眠れないんだよ、俺が」
父親は誰にともなく言って冊子を開いた。
「第一条。本要領は――」
低くて平坦な声が熱でぼんやりした頭に流れ込んでくる。
不思議と身体の熱さが少し遠のいた。
この家には子守唄が一曲しかない。
その一曲が融資規定である。
俺は第四条のあたりで眠った。
父親は第六条のあたりで眠ったらしい。朝になると冊子を胸に乗せたまま布団の横で丸くなっていた。
三日目の夕方、熱が下がった。
そして翌朝、母親が悲鳴のような声を上げた。
「あなた! 出てる、ぶつぶつ、出てます!」
俺の腹と背中に赤い発疹が広がっていた。
父親がどたどたと走ってきて俺の服をめくった。
「出てる……出てるな」
「出てますね」
「よかった……」
二人して赤いぶつぶつだらけの息子を見て、心の底から安心した顔をしている。
発疹を見て喜ぶ親というのも、なかなか珍しいと思う。
母親が俺を抱き上げた。
抱き上げたまま、しばらく動かなかった。
肩が小さく震えていた。
「よかった。よかったねえ、琢真」
耳元で母親が言った。
声が濡れていた。
俺は母親の肩越しに天井を見ていた。
この三日間、俺にできたことは一つもなかった。熱は勝手に上がって勝手に下がった。
医者を探したのも、タオルを替えたのも、りんごをすりおろしたのも、全部大人だ。
俺の三十歳までの計画には、俺が寝込んだ日の分の余白が入っていなかった。
この人たちは俺が三十歳で死ぬかもしれないことを知らない。
知らないまま、たった三日の熱でこんなに怯えて、こんなに安心する。
三十歳まで生き延びなければならない理由も、もう一つ増えた気がした。
ミッションのためではなく、この人たちに、もう一度あんな顔をさせないために。
……いや、三十歳で死んだらもっとひどい顔をさせることになるのか。
それは困る。とても困る。
その夜、俺は【STATUS】を開いて、四日ぶりに手足を動かした。
パワー +1
たった一つの経験点がずいぶん懐かしかった。
左の数字はまだ一つ下がったままだ。
三十歳まで生きるためには、まず、明日まで生きなければならないのだ。




