第5話 離乳食
寝返りを覚えた日は一日で二十回以上ひっくり返った。
新しい動作は新しい経験点の稼ぎ場だ。覚えたての動作は面白いように経験点が入る。
母親は最初こそ喜んでいたが、夕方には俺を仰向けに戻すようになった。戻されたそばから、またひっくり返る。
母親は戻すのを諦め、俺の周りに座布団を並べて囲いを作った。
囲いの中で俺は黙々と回転した。鶏の丸焼きになった気分だった。
座布団にぶつかると止まり、そこから反対向きに回り直す。
往復になった分、同じ動作の繰り返しにならず、経験点の入りが長持ちした。
母親の善意の囲いは、偶然にもよくできた練習場だった。
十二月の半ば、五か月を目前にした頃に食卓が変わった。
「琢真、今日から離乳食ですよ」
小さな器の中に白くてどろりとしたものが入っている。
十倍粥、というらしい。
米を十倍の水で炊いたもの。つまり、ほぼ水である。
スプーンが口に運ばれる。
味が、ない。
いや、ある。かすかに米の甘みのようなものが遠くの方で手を振っている。
前世の俺はこれを食べ物とは認めない。
しかし今世の俺の身体は違った。
初めての固形物――いや、液体と固形物の間にある何か――に舌が驚いている。
理性が文句を言っている間に、本能が二口目を迎えにいく。
この身体はどうも俺より素直だ。
十倍粥は年をまたいで、ひと月あまりかけて五倍粥になり、かぼちゃや人参、豆腐、白身魚が加わった。
母親は離乳食の本のあちこちにページの角を折った。それから乳母車を押して商店街の金物屋まで裏ごし器を買いに行った。
かぼちゃは美味い。人参はまあ、許す。白身魚は骨を取るのに母親が三十分かけたことを知っているので残さず食べる。
ほうれん草を裏ごししたものだけは前世の俺と今世の俺の意見が完全に一致した。
これは食べ物ではない。
緑色で、青臭くて、舌の上でざらりとする。身体が全力で押し返し、母親のエプロンに緑色の模様ができた。
「……ほうれん草は苦手みたいですねえ」
苦手どころではない。敵だ。
ところがその夜、俺は考え直すことになった。
布団の中で【STATUS】を開いて基礎能力の数字を眺めていたときだ。
パワー。スタミナ。
数字を上げるには経験点が要る。経験点を得るには、身体を動かす必要がある。身体を動かすには――
身体そのものが要る。
骨。筋肉。血。
それを作っているのは口から入るものだけだ。
世界の頂点に立つような選手はみんな食事に気を遣っていた、という話を前世でどこかで聞いた気がする。好き嫌いで身体は作れない。
ほうれん草。
たしか鉄分が多い。血を作る。
期限は三十歳。その身体を好き嫌いで削っている余裕はない。
翌日の昼、器に緑色のものが出てきた。
母親は半分諦めた顔でスプーンを差し出した。
「一口だけ、どうですか?」
俺は口を開けた。
青臭い。ざらりとする。身体が押し返そうとする。
押し返させない。
飲み込んだ。
母親の手が止まった。
二口目。
口を開ける。
俺は戦場に向かう兵士のような顔をしていたと思う。
「……琢真?」
三口目。四口目。
器が空になった。
母親は空の器をしばらく見つめ、それから俺の額に手を当てた。
「……熱はないですねえ」
ほうれん草を食べただけで、熱を疑われた。
一月の終わり、生後半年が近づいた頃に、同じ食卓でもう一つ気がついた。
母親がスプーンを口に運んでくれるとき、経験点は入らない。
けれど俺が母親の手からスプーンを奪おうと腕を伸ばすと――
テクニック +1
六つの基礎能力の中でここまで一度も経験点が入らなかった項目だ。保健センターで鉛筆を全力で握ったときも、入ったのはパワーだけだった。
握るだけでは足りない。テクニックは道具を扱う動作でしか入らないらしい。
テニスはラケットという道具を使う競技だ。考えてみれば当然の話である。
ここからの俺は執念の塊だった。
スプーンを奪い、器に突っ込み、粥をすくって口へ運ぶ。
口には届かない。
粥は頬に着地した。二回目は顎。三回目はなぜか耳。
「あらあら、あらあら」
母親が慌てて布巾を取りに行く間に、四回目。鼻の頭。
テクニック +1
テクニック +1
外すたびに入る。どうやら成功したかどうかではなく、道具を操ろうとすること自体が経験になるようだ。
ならば外し放題である。
その日の昼食が終わる頃には、俺の顔と前掛けと椅子と床と母親のエプロンと、なぜか壁の一部までが五倍粥で白く染まっていた。
テクニック、プラス六。
代償、母親の午後。
「……自分で食べたいんですねえ、琢真は」
布巾を三枚使い切った母親の「ねえ」は、いつもより長かった。
翌日から俺は食事の後半だけスプーンを奪うことにした。母親の午後は半分だけ守られるようになった。
ちなみに日曜日は父親の担当だった。
「俺だってできるって。粥を口に運ぶだけだろ」
父親はシャツの袖をまくり、自信満々にスプーンを構えた。
融資規定で寝かしつけに成功して以来、父親は育児に妙な自信を持つようになっていた。
母親は何も言わずに父親の首に大きなタオルをかけた。
俺は前半をおとなしく食べた。
父親は「ほら見ろ、簡単じゃないか」と得意げだった。
後半、スプーンを奪った。
五倍粥は父親の顔と、タオルと、タオルでは守りきれなかった眼鏡と、なぜか父親の髪の毛の中に着地した。
「…………」
父親は粥のついた眼鏡越しに俺を見た。
俺は次の一杯をすくっていた。
テクニック +1
「……月曜、支店長に『寝癖か』って言われるな、これ」
その夜、父親は髪を二回洗った。
翌週から日曜の離乳食は再び母親の担当になった。
父親は隣でタオルを構える係になった。
タオルを構える父親の顔は融資規定を読み上げていた夜と同じくらい真剣だった。
この家で一番粥の軌道を読むのが上手くなったのは、たぶん父親だ。
レスポンスの経験点を俺より稼いでいるかもしれない。
春が近づいた頃、スプーンの次にコップが来た。
プラスチックの、両側に取っ手のついた小さなコップ。中には薄めた麦茶が少し入っている。
「琢真、コップで飲む練習ですよ」
母親はその日の朝、新聞紙を床に三枚敷いた。
スプーンの一件で学習したらしい。
両手で取っ手を握る。持ち上げる。傾ける。
口に、当てる。
麦茶は顎を伝って前掛けに流れた。
テクニック +1
コントロール +1
スプーンより難しい。
スプーンはすくって運ぶだけだ。コップは、傾ける角度を間違えると、中身が一気に来るか、まったく来ないかのどちらかになる。
二回目。傾けすぎた。麦茶が鼻に入った。
むせた。
三回目。傾けが足りない。コップの縁を、ただ舐めただけで終わった。
四回目。
少し、口の中に入った。
麦茶の、香ばしい味がした。
飲めた。
たった一口の麦茶で、こんなに達成感があるとは思わなかった。
前世で何も考えずにペットボトルを傾けていた自分に教えてやりたい。お前がやっていることはけっこうな技術なんだぞ、と。
「あら、飲めましたねえ」
母親が新聞紙の上で拍手した。
新聞紙は麦茶でびしょびしょになっていた。
その日の夕方、帰ってきた父親は濡れた新聞紙の山を見て言った。
「……今度は何があった」
「コップの練習です」
「粥の次は、麦茶か」
父親は黙って鞄を置き、タオルを取りに行った。
この家の大人たちは、確実に、何かの経験点を積んでいる。
たぶん、忍耐とか、そういう種類の。
スプーンを握り、コップを握る。道具と名のつくものは片っ端から握ってきた。
残り、二十九年と少し。
ラケットの重さだけを、俺はまだ知らない。




