第4話 子守唄は融資規定
その日、母親は夕方から出かけることになっていた。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だって。ミルク作って、飲ませて、おむつ替えて、寝かせる。それだけだろ」
「それだけ、ですけど」
母親の高校時代の同窓会らしい。
俺が生まれてから母親が夜に家を空けるのはこれが初めてだった。
玄関で靴を履いたあとも母親は三回振り返った。
「ミルクは人肌ですからね。手首に垂らして熱くないか確かめてくださいね」
「分かってる」
「おむつはテープを先に外すと大変なことになりますからね」
「分かってるって」
「何かあったら実家に電話してください。番号は電話の横に貼ってありますから」
「分かってるから。ほら遅れるぞ」
戸が閉まり、足音が遠ざかっていく。
父親は玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと振り返り、居間の布団に寝かされた俺を見下ろした。
「……よし」
何が「よし」なのかは分からなかった。
たぶん、本人にも分かっていない。
最初の試練はミルクだった。
台所から、がちゃがちゃと音がする。缶を開ける音。粉をすくう音。お湯を注ぐ音。
そして、長い沈黙。
「……何杯って言ってたっけ」
缶の側面を読んでいるらしい。
「月齢……四か月……この線まで……で、何杯……」
戻ってきた父親は真剣な顔で哺乳瓶を自分の手首に傾けた。
「あっつ!」
台所へ引き返し、水道の水で瓶の外側を冷やす。手首に垂らす。首をかしげる。また冷やす。
四回目で父親は手首に垂らした一滴を、なぜか舐めた。
「……ぬるいな。いや人肌ってこんなもんか? 人肌ってなんだ。俺の肌か?」
哲学が始まっていた。
ようやく口元に運ばれてきたミルクは確かにぬるかった。
だが文句を言う口がない。俺は黙って飲んだ。
飲み終わると父親は俺を縦に抱き、背中をとんとんと叩いた。げっぷを出させるためだ。
出ない。とん、とん。
叩く間隔がだんだん不安定になり、父親の焦りが背中越しに伝わってくる。
仕方がない。
俺は腹に力を入れた。
けふ、と小さな音が出た。
「出た!」
父親が居間で一人、小さくガッツポーズをした。
げっぷ一つでこの喜びよう。窓口で大口の預金を取ってきても、ここまでは喜ばないだろう。
第二の試練はおむつだった。
父親は布おむつとおむつカバーの前で腕を組んでいた。
「テープを先に外すと大変なことに……なるんだよな。じゃあ、何から外すんだ?」
知らない。俺もおむつを替える側に回ったことはない。
父親はしばらく考えた末、俺の両足首をそっと持ち上げようとした。
赤ん坊の足は思ったより言うことを聞かない。持ち上げようとすると反射で曲がる。伸ばそうとすると蹴る。
父親の額に汗が浮かび始めた。
……協力するか。
俺は両足をまっすぐ上に上げ、腹筋に力を入れて腰を少し浮かせた。
ついでに言えばこの姿勢はスタミナの経験点が入る。
父親の手が止まった。
「……今、自分で足上げたか?」
上げた。
早くしてほしい。この姿勢は四か月の腹筋にはけっこうきつい。
「……いや、たまたまだよな」
父親は首をかしげながらも手早くおむつを替え終えた。替え終わるまで俺は足を上げ続けた。
スタミナ +1
父親はおむつを替え終えると、なぜか正座になった。
そして俺に向かって小さく頭を下げた。
「……ご協力、ありがとうございました」
窓口の癖が出ていた。
最後の試練は寝かしつけだった。
布団に寝かされた俺の横で父親があぐらをかいている。
「……子守唄って、何歌えばいいんだ」
父親はしばらく天井を見上げていた。
それから小さな声で何かを歌い始めた。
ねんねん、ころりよ――
二小節で止まった。
「……続き知らねえ」
正直な人だ。
父親はまた考え込み、それから立ち上がって部屋の隅の鞄を開けた。
仕事用の黒い鞄。中から分厚い冊子を取り出す。
「まあ、いいか。どうせ明日までに読まなきゃいけなかったし」
表紙に硬い字で何か書いてある。
融資事務取扱要領。
父親は俺の横に寝転がり、冊子を開いた。
「第一章、総則。第一条。本要領は、当行における融資業務の適正かつ円滑な運営を図るため、その取扱いの基準を定めるものとする」
子守唄が始まった。
「第二条。融資の申込みを受けたときは、申込人の資格、資金の使途、返済財源、及び担保を――」
父親の声は低くて平坦だった。
抑揚がない。感情もない。ただ、条文が流れていく。
それが妙に心地よかった。
「――担保の評価にあたっては、時価を基準とし、その掛け目は別に定める――」
担保。掛け目。返済財源。
前世でもどこかで聞いた言葉だ。
今の俺にはその単語が別の意味で響いた。
金を借りるには担保が要る。
担保とはつまり、土地だ。
一九八四年の日本で、土地の値段はこれから上がり続ける。担保の価値が上がれば借りられる金も増える。借りた金でまた土地を買う。
その仕組みがこの先どうなるのかを、俺は知っている。
「――第五条。与信判断にあたっては、申込人の過去の取引実績、及び将来の返済能力を総合的に――」
将来の返済能力。
父親は一歳にも満たない息子に向かって真剣な声で条文を読み上げている。
この息子に将来の返済能力がどれだけあるのかは、まだ誰にも分からない。三十歳までしか生きられない可能性がある、という点を除けば。
与信判断としては、たぶん最悪の案件だ。
そんなことを考えているうちに瞼が重くなってきた。
父親の声が遠くなる。
「――第八条……」
ふと声が止まった。
薄く目を開けると父親は冊子を胸の上に伏せて、天井を見ていた。
「……なあ、琢真」
父親は独り言のように話し始めた。
「俺な、三男なんだよ。上に兄貴が二人いてさ。親父は建設会社をやってて、上の兄貴がそれを継ぐ。下の兄貴は、会社の金のことを任されてる」
初めて聞く話だった。
「俺は、どっちもできなかった。現場に出たら、ヘルメットの下で日射病になるし。そろばんは、下の兄貴の方がずっと速い。親父には、いまだに『銀行なんぞ辞めてうちに来い』って言われるけどさ」
父親は少し笑った。
「行ったって、俺にできることなんか、たぶんないんだよ。だから、自分で選んだところで、ちゃんとやりたいんだ。規則を守って、客に迷惑をかけないで。……地味だけどな」
ネクタイに毎朝舌打ちしている男の、ネクタイを締める理由を初めて聞いた気がした。
「お前は、好きなことをやれよ」
父親の大きな手が俺の腹の上にそっと乗った。
「なんでもいい。好きなこと見つけて、好きなだけやれ。パパ、そのためなら窓口で何回でも頭下げるから」
好きなこと。
俺がこれからやらなければならないことは好きかどうかとは関係がない。
やらなければ、死ぬ。それだけだ。
けれど、この人にそれを伝える方法はないし、伝える必要もない気がした。
腹の上の手は温かかった。
「――第八条。貸出金の回収にあたっては……」
父親が再び冊子を読み始めた。
照れ隠しなのか、さっきより少しだけ早口だった。
俺は第八条の途中で眠った。
夜遅く玄関の戸が開く音で目が覚めた。
「ただいま帰りました。……あら」
母親の声が小さくなった。
薄目を開けると居間の電気がつけっぱなしになっていた。
布団の横で父親が大の字で眠っている。胸の上には開いたままの融資事務取扱要領。
母親はしばらくそれを眺めてから、くすりと笑った。
父親の胸から冊子をそっと取り上げ、表紙を見てもう一度笑った。
「……これで寝かしつけたんですか」
答える者はいない。
父親は第九条のあたりで力尽きたらしい。
母親は父親に毛布をかけ、俺の顔を覗き込んだ。
俺は目を閉じて寝たふりをした。
「お父さん、頑張ったのね」
頑張っていた。
ミルクは四回冷やし直したし、おむつは正座で締めくくった。子守唄は二小節で力尽き、そのあとは融資規定を読み上げた。
翌朝、父親は出がけに鞄に冊子を詰めながら母親に言った。
「あいつ、第八条で寝たぞ」
「そうですか」
「融資規定、子守唄に向いてるかもしれん」
「それ、琢真が向いてるんじゃないですか?」
父親は少し考えて、それから首を振った。
「いや、それはない。銀行員には向いてない。あいつはたぶん、もっと――」
続きを言わずに父親は出ていった。
もっと、何だろう。
それも気になるが、今はゆうべの話の方だ。
会社の金を任されている、下の兄。金がなければ始まらない俺の計画に、初めて出てきた「金を扱う大人」だった。




