第3話 経験点の法則
変化に気づいたのは首がすわり始めた頃だった。
その日、俺はいつものように仰向けのまま、天井から吊るされた玩具を眺めていた。
色のついた鳥が五羽、輪になってぶら下がっている。ベビーメリーというやつだ。母親がぜんまいを巻くとオルゴールの音に合わせてゆっくり回る。
ようやく形が分かるようになってきた。
赤、黄、青。鳥だと分かるまでに、ずいぶんかかった。最初の一か月は天井に浮かぶ謎の色つきの雲だと思っていた。
とにかく暇だった。
考えることはあらかた考えてしまい、身体はろくに動かない。一日の大半を仰向けで過ごし、天井と鳥を眺めて終わる。
だから、なんとなく手足をばたつかせていた。
理由はない。前世なら貧乏ゆすりをしていた場面だ。
そのとき視界の端で何かが光った。
【STATUS】を開く。
■経験点▽
パワー 1
テクニック 0
コントロール 0
スピード 0
スタミナ 0
レスポンス 0
入っている。
生まれてからずっとゼロのまま動かなかった数字が、一になっていた。
眠気が一瞬で吹き飛んだ。
手足をばたつかせる。
もう一度。もう一度。
パワー 2
パワー 3
増える。これだ。
経験点は身体を動かすことで入る。
俺は夢中で手足を振り回した。傍から見れば、ただ機嫌のいい赤ん坊だっただろう。実際、機嫌はよかった。この世界に来て初めて、自分の手で何かを前に進めている手応えがあった。
パワー 8
パワー 9
九まで来たところで数字の伸びが鈍った。
さっきまでは数回ばたつかせれば一つ増えていたのに、今は十回、二十回と繰り返してようやく一つ。
疲れたからか。
そう思って少し休み、再開してみたが、戻らない。
同じ動作を繰り返すほど一回あたりに得られる経験点は少なくなっていく。
楽をして稼ぎ続けることはできない、ということか。
ゲームで言えば同じ敵ばかり倒していると経験値が入らなくなるやつだ。いやらしい設計である。
それでも、どうにかパワーが十に届いた。
上限解放、と強く意識する。
パワー G 1 / 2
経験点が十、消えた。
右側の数字が一つ増えた。
ここまでは予想どおりだ。問題はこの先。左側の数字――現在値はどうすれば伸びるのか。
俺の仮説では練習だ。
ならば、と再び手足をばたつかせる。
経験点はほとんど入らない。さっきの繰り返しで効率が落ちたままだ。
それでも構わない。今確かめたいのは経験点ではなく現在値の方だ。
ばたつかせる。休む。ばたつかせる。
途中で母親が覗き込んできた。
「あらあら、ご機嫌ですねえ」
ご機嫌というより実験中である。
夕方、父親が帰ってきた頃には、さすがに手足がだるくなっていた。
ネクタイを緩めながら父親がベビーベッドを覗き込む。
「こいつ、ずっと手足動かしてるな」
「朝からずっとなんですよ。元気でいいですねえ」
「元気っていうか……なんか、黙々とやってないか?」
鋭い。
この父親、母親よりは疑り深い。
その夜、寝る前に【STATUS】を開いた。
パワー G 2 / 2
上がっている。仮説は正しかった。
経験点で天井を上げ、練習で床を天井まで持ち上げる。二段構えの成長だ。
翌日からは動かす場所を変えることにした。
同じ動作では効率が落ちるなら別の動作をすればいい。
腕だけ。脚だけ。両方。首を持ち上げる。
首を持ち上げたまま耐えているとスタミナの経験点が入った。
メリーの鳥を目で追うとレスポンスが入った。
ぶら下がった鳥に手を伸ばして触れようとするとコントロールが入った。
一つの動作をやり込むより、いろいろな動作を少しずつ回した方が効率がいい。
赤ん坊の一日に時間割ができた。
起きたら腕。飲んだら脚。母親が掃除機をかけている間は鳥を追う。
ベビーメリーのぜんまいが切れて、鳥が止まる。
俺は泣く。
母親が来てぜんまいを巻く。
「琢真は本当にこれが好きねえ」
好きなのではない。
レスポンスの経験点が回っている鳥でしか入らないのだ。
ちなみにこの泣き声だけは、おむつと翻訳されなかった。
母親の辞書に「メリー」の項目が追加されたらしい。俺の意思が初めて正しく伝わった瞬間がこれである。
生まれてちょうど三か月。十月も最後の日だった。
俺は母親に抱かれて保健センターの待合室にいた。
乳児健診、というやつだ。
長椅子にずらりと母親が並び、それぞれの腕に赤ん坊が収まっている。泣いている子、寝ている子、母親の服を引っ張っている子。
俺は泣きも寝もせず壁に貼られた「予防接種のお知らせ」を読んでいた。まだ焦点が甘くて半分も読めなかったが。
「おとなしいのね、この子」
隣の母親が話しかけてきた。
「ええ、あんまり泣かないんです」
「いいわね、うらやましい。うちのなんか一日中泣いてるのよ」
その腕の中の赤ん坊がちょうど泣き出した。
なるほど、たいしたスタミナだ。
待合室を見回す。
同じ頃に生まれた赤ん坊がざっと二十人ほど。
前世の言い方をすれば同期だ。
この中の何人が将来スポーツをやるのか。何人がテニスを選び、何人がプロになるのだろう。まず一人もいない。いたとしても一人か二人。
それでいい。この子たちは好きなことを好きなだけやって、三十歳を過ぎても普通に生きていく。
同期二十人のうち、納期つきで生まれてきたのは俺一人だ。
隣の赤ん坊が泣きながら手を伸ばしてきた。
小さな指が俺の指を掴む。
……なかなか強い。
同期に負けるわけにはいかないので握り返しておいた。
二人して母親に引き剥がされた。
「丹羽琢真くん」
名前を呼ばれて診察室に入った。
白衣の保健婦さんが俺を台の上に寝かせる。
身長、体重、頭の大きさ。手際よく測り、紙に書き込んでいく。
計測が終わると、奥の机にいた年配の医者が椅子ごとこちらへ回ってきた。
「反射、見ます」
医者は前置きもなく俺の手のひらに鉛筆を押し当てた。
把握反射。赤ん坊の手のひらに何かが触れるとぎゅっと握るあれだ。知識としては知っている。
握れと言われたら握るまでだ。
それに握る動作はパワーの経験点になる。
俺は鉛筆を全力で握った。
医者が鉛筆を引いた。
抜けない。
もう一度、引いた。
抜けない。
「……ん」
医者は眉を上げ、今度は両手で鉛筆を持って引いた。
俺の身体ごと台から少し浮いた。
しまった。
慌てて手を開く。鉛筆がすっぽ抜け、医者の肘が机の角に当たった。
「お母さん。この子、握る力が強い」
「そうなんですか?」
「この月齢なら、普通はもっと弱い」
医者はカルテに一行書いた。横で見ていた保健婦さんも手元の紙に何か書き込み、少し考えてから書き直した。
まずい。
目立ちすぎると、どこかで無理が出る。調べられたり、珍しがられたりするのは避けたい。赤ん坊らしくない赤ん坊は気味が悪い。
「次、引き起こし」
医者が俺の両手を持ち、ゆっくりと上体を起こす。
首がついてくるかどうかを見る検査だ。三か月なら首はまだ少し遅れてついてくるのが普通だろう。
今度こそ普通の赤ん坊をやる。
首の力を抜く。
抜く。
抜いて――
ここで問題が起きた。
首を持ち上げたまま耐える運動はこの一か月、毎日欠かさずやってきた。スタミナの経験点のために。
身体がそれを覚えていた。
起こされた瞬間、首が勝手についてきた。ぴたりと。遅れもせず。まるで腹筋運動の見本のように。
「…………」
「…………」
医者の肩越しに覗き込んでいた保健婦さんと目が合った。口元は笑っているのに、目が笑っていない。
「……首、しっかりしてますね」
帰り道、母親は上機嫌だった。
「琢真、力持ちなんですって。首もしっかりしてるって。すごいですねえ」
すごくない。
全然すごくない。
赤ん坊の演技指導というものがあるなら今すぐ受けたい。
その夜、俺は【STATUS】を開いてため息をついた。
パワー +2
スタミナ +1
鉛筆一本と首一回でこの収穫。
健診、毎週やってくれないだろうか。
それから数日、俺は「普通の赤ん坊」の練習をした。
力を抜いて握る。首をわざと遅らせる。
やってみてすぐに分かった。
手を抜いた動作には経験点が一つも入らない。
全力でやれば目立つ。目立たないようにやれば稼げない。
【STATUS】という仕組みは、どうやら手加減という概念を評価しない方針らしい。
俺は三日で「普通の赤ん坊」の練習をやめた。
人前でだけ気をつけてそれ以外は全力。赤ん坊にして早くも二重生活の始まりである。
練習をやめた夜、待合室の同期たちを思い出していてふと引っかかった。
前世のテレビで何度も見た、四大大会をほとんど四人で分け合っていた男たち――あの四人は何年の生まれだった?
俺の同期は、あの待合室の二十人だけではないのかもしれない。




