第2話 成長タイプ
あれから現実逃避のふて寝を数度繰り返した。
赤ん坊の身体は便利なもので、考えたくないことがあると勝手に眠ってくれる。
ただし起きたところで状況は何も変わっていない。
転生したことも、今のところ寿命が三十歳であることも、夢ではなかったようである。
目覚めるたびに【STATUS】を開き、最終ミッションの欄を確かめた。心停止の三文字は律儀に同じ場所に居座っている。
こうしてうだうだ悩んでいても、三十歳というタイムリミットは刻一刻と迫っているのだ。
……いや、迫っているというには遠すぎるか。
三十年。長いようで振り返ればあっという間の年数だ。
さて、死なないためにはできることから進めていかねばならない。
視界の確保すらままならないので、できることは考えることのみ。
まずは【STATUS】について。
あまりにもゲームじみた仕様であるが、分かりやすいことこの上ない。
経験点を貯めて上限を伸ばし、現在値はおそらく練習で追いつかせる。
だとすれば強さを決めるのは、それを何回繰り返せるか――つまり時間だ。
そこまで考えたところで後回しにしていた項目を思い出した。
■成長タイプ▽
▽へ意識を向ける。
■成長タイプ
未選択
早熟 ピーク 二十歳
通常 ピーク 三十歳
晩成 ピーク 四十歳
※選択は一度のみ
※ピーク以降、能力は低下します
ピーク。
文字どおりに受け取るなら能力がいちばん高くなる年齢だ。ピークを越えればあとは下がっていくだけ。
伸びる速さがどのタイプでも同じだと仮定する。
その場合ピークが遅いほど育てられる期間が長くなり、最終的な能力は高くなる。
単純な話だ。
一番強くなれるのは、晩成。
四十歳まで伸び続ける身体。世界の頂点を狙うならこれ以上の条件はない。
――ただし、俺は三十歳で死ぬ。
思わず声のない笑いが漏れた。実際に出たのは、ふにゃ、という音だけだったが。
晩成を選べばピークの十年前に心臓が止まる。
人類史上もっとも伸びしろを残した死体の完成だ。墓石には「将来有望」と彫ってもらえるかもしれない。
では早熟はどうか。
二十歳で頭打ち。プロになれるかどうかという年齢で成長が止まり、そこから十年、下がっていく身体でグランドスラムを狙うことになる。
論外だ。
残るのは通常。
ピークは三十歳。期限と同じ年齢。
締め切りの直前まで伸び続けられる。
三つのうち生きている間に一番長く成長できるのは、これしかない。
選ぶ前に一つだけ引っかかった。
※ピーク以降、能力は低下します
三十歳を過ぎた先。
グランドスラムを制覇して生き延びたとしたら。その先の俺は下り坂の身体で生きていくことになる。
……それがどうした。
生き延びなければ下り坂もない。
三十の先のことは三十を越えてから考えればいい。
通常、と強く意識する。
■成長タイプ
通常 ピーク 三十歳
確認の表示すら出なかった。一度のみ、という注記のとおり、ほかの二つは跡形もなく消えている。
成長の期限は三十歳。生存の期限も三十歳。
二つの締め切りがぴったりと重なった。
思えば前世の俺は締め切りの前日にならないと動けない人間だった。夏休みの宿題も、レポートも、企画書も。
今回の締め切りは前日に動いても間に合わない。三十年前から動くしかない。
人生で初めて、締め切りに対して早起きをすることになりそうだ。
年号が分かったのは父親の声からだった。
生まれて十日ほどの夜、父親がちゃぶ台でペンを走らせながら一項目ずつ読み上げていた。
「生まれたとき、昭和五十九年、七月……」
出生届だ。
昭和五十九年。頭の中で二十五を足す。
一九八四年。
前世の俺が生きていたのは二〇二〇年代のどこかだ。四十年近く巻き戻されたことになる。
そういえば、テレビは毎晩ロサンゼルスのオリンピックの話をしている。
朝はだいたい同じ音から始まる。
まず目覚まし時計。ジリリリ、という金属のベルの音。前世で使っていたスマホのアラームとはずいぶん違う。一九八四年なら当然か。
次に布団をはねのける音と、男の小さなうめき声。
「……もう七時か」
推定父親である。
声を聞くかぎり、かなり若い。前世の職場ならまだ新人扱いされている年頃だ。
その若い父親は毎朝きっかり同じ順番で支度をする。顔を洗い、髭を剃り、ネクタイを締める。ネクタイのところで一度だけ舌打ちをするのも毎朝同じだ。
「支店長がまた早く来るんだよ。新人より先に来るなって話で」
「大変ですねえ」
「大変なんだよ」
会話の端々から父親が銀行に勤めていることが分かった。
支店長、融資、窓口。前世でも縁のあった単語が朝の食卓に並ぶ。
母親の方は専業主婦だ。
父親を送り出したあとも家の中にずっといて、洗濯機を回し、掃除機をかけ、そのあいだ中ずっと何かを口ずさんでいる。曲名は分からない。
目はまだ役に立たない。ぼんやりとした光と影が動くのが分かる程度だ。
だから俺はこの家を音で覚えた。
そして意思を伝える手段は泣くことしかない。
ならば泣き方を使い分ければいいのではないか。
短く一回は「はい」。長く一回は「いいえ」。二回続けて泣いたら「話がある」。
モールス信号のようなものだ。母親は毎日俺の泣き声を聞いているのだから、そのうち法則に気づくだろう。
さっそく実践した。
短く、一回。
「あら、おむつかしら」
違う。
長く、一回。
「おむつですねえ」
違う。
二回続けて。
「……やっぱりおむつ」
三日続けたところで俺は信号の開発を断念した。
この家において泣き声はすべて「おむつ」に翻訳される。そういう辞書が母親の中にあるらしい。
そしてその辞書はだいたい当たっているのが腹立たしかった。
父親の方にも辞書はあった。
父親の辞書では泣き声はすべて「眠い」に翻訳される。どんな泣き方をしても父親は俺を縦に抱いて、居間の中を歩き回る。
おむつが濡れているときに歩き回られる。
これはなかなかつらい。
この家には二冊の辞書がある。
どちらも俺の言いたいことは載っていない。
夜にも決まった音が一つある。
布団のこすれる音と、畳を忍んで歩く足音。母親が起きてきて、布団の上から俺の胸に手のひらを載せる。
重さはほとんどないのに、その手はしばらく胸の上から動かなかった。
この確かめ方には辞書がいらない。息をしていればそれがそのまま返事になる。
三十歳で止まると決まっている心臓を、この人は毎晩、今日も動いているかと確かめに来る。何も知らないまま、俺より先に。
さて、本題に入ろう。
グランドスラムへの到達方法だ。
ゴールから逆算していこう。
グランドスラムを制覇するには四大大会に出場しなければならない。
四大大会に出るにはプロになることが絶対条件だ。
プロになるために必要なことはなんだろうか?
才能と環境の二つがまず思い浮かんだ。
才能については【STATUS】をあてにするしかない。
センス○と天才肌。中身の見えない保証書が二枚。それと三十歳まで伸び続ける身体。今のところ手持ちの札はそれだけだ。
環境であるが、良質なコート、良質な指導、適正な食事や休息、その他諸々。
コートは借りればいい、という話ではない。
毎日、好きなだけ打てる場所が要る。それも芝もクレーもハードも。コート適性の項目が三つに分かれている以上、どれか一つだけで済むとは思えない。
指導も同じだ。
世界の頂点を知っている人間に教わるのとそうでないのとでは、差が出るに決まっている。
食事、休息、遠征費、道具。並べていくと、きりがない。
これに関しては解決方法が一つ存在している。
シンプルに金だ。
金さえあれば、おおよそすべてのことを解決できるし、金がなければ、おおよそすべてのことで苦労をする。
どうにかして金稼ぎをしなければなるまい。
我ながら金、金、金と、こんな乳児は嫌である。
しかも問題はその金をどうやって用意するかだ。
父親は若手の銀行員。
息子のために芝とクレーとハードのコートを揃えられるほどの余裕があるとは思えない。
そもそも生まれたばかりの息子に世界一を目指させる父親というのも、なかなかいない。
となると俺自身が稼ぐしかない。
……赤ん坊が?
ここで行き止まりだ。
テニスの練習もできない。
金稼ぎもできない。
見えないし、歩けないし、喋れない。泣き声はおむつか眠いのどちらかに翻訳される。
赤ん坊に金は動かせない。動かせるのは大人だ。
俺の代わりに判を押し、口座を開き、何かを買ってくれる大人が要る。問題は、生後ひと月の赤ん坊の話を真に受ける大人がどこにいるのか、ということだった。
ジリリリ、と遠くで目覚まし時計が鳴った。
いつの間にか、また眠っていた。
「……もう七時か」
父親のうめき声を聞きながら俺はぼんやりと思った。
手近な大人は、毎朝ネクタイに舌打ちしているこの人だけだ。融資の相談なら本職ではある。
ただし申込人の年齢欄に「〇歳」と書いた時点で、審査はたぶん通らない。




