第1話 暗闇の文字
目が覚める。
正確には意識だけが覚醒した。けれど目が開かない。
視界は暗闇に包まれている。
なんだ。攫われたのか?
そんな心当たりはない。確か昨日は――何をしていた?
思い出せない。
仕事から帰って、飯を食って、風呂に入って。そういう、いつもどおりの夜だったはずだ。けれどその「いつもどおり」の中身が一つも出てこない。昨日の夕飯すら浮かばなかった。
身動きも取れなかった。
縛られている感覚はない。それなのに身体を動かそうとしても、まるで自分のものではないかのように反応しない。
良くない薬でも飲まされたのか?
分からない。
分からないことを分からないまま並べても仕方がない。まずは確かめられることから確かめよう。
指先に意識を向ける。動かない。
足の指。動かない。
瞼。やはり開かない。
ただ、何かに包まれている感触だけはあった。柔らかくて少し温かい。拘束具にしては、ずいぶんと親切な作りだ。
考えを巡らせているうちに意識が再び朦朧としてきた。必死に保とうとするが、抵抗もむなしく思考がほどけていく。
そんな俺が最後に見たのは暗闇の中に浮かぶ一つの文字だった。
【STATUS】
なんだ、それは。
問いかける前に何もかもが途切れた。
再び意識が覚醒した。
相変わらず身体は動かない。だが変化が一つあった。
瞼越しに光を感じる。照明か陽光かは分からないが、暗闇しかなかった先ほどよりは幾分かましだ。
何かが触れ合う音。それに足音らしきものも聞こえる。
陶器が重なる、かちゃりという音。畳を踏む、きしりという音。
さらに耳を澄ませると人の声が混じっていた。
「本日――晴れ間が――暑く――」
日本語か?
視界だけでなく聴覚までも頼りにならない。音は聞こえるのに、言葉としてうまく頭に入ってこない。水の中で誰かが喋っているのを聞いているようだ。
それでも断片を拾っていくと、テレビの天気予報だと分かった。
天気予報。
少なくともここは誘拐犯のアジトではなさそうだ。朝の天気予報を眺めながら人質を監禁する犯人は、たぶんいない。いたとしたら、よほど洗濯物が気になる犯人だ。
「おはよう――さん。――たくまも」
「おはよう、あなた――――」
男女の声がする。
その口調からして夫婦だろうか。男の声は若い。起き抜けで少しかすれている。女の声はそれよりも柔らかく、語尾がゆっくりと伸びる。
たくま、というのはもう一人の名前らしきもの。
日本語の天気予報に、日本人らしき夫婦。
だが昨日までの記憶がなく、身体はまるで動かない。そして暗闇に浮かんだ【STATUS】。
希望的観測が多分に含まれている。それでも一つの可能性が頭に浮かんだ。
どうやら俺は日本に転生したらしい。
……いや、待て。
転生、と言い切るには材料が少ない。長い昏睡から目覚めた病人という線もある。記憶がなく、全身が動かず、なぜか視界に英単語が見える病人。
そっちの方が救いがない気がしたので、ひとまず転生説を採用する。
試しに助けを求めようと彼らに向かって声を上げた。
しかし聞こえてきたのは、ふにゃふにゃとした泣き声だった。
なるほど。
病人説は消えた。
泣き声を聞きつけたのか推定母親が近づいてきた。足音が軽い。
「どうしたの? お腹がすいたんですか?」
赤ん坊に向けるには少し丁寧な言葉遣いだった。
ふわりとした浮遊感とともに身体が抱き上げられる。
持ち上げられて初めて、自分の身体がどれだけ小さいのかを知った。首がぐらりと傾き、大きな手がすぐにそれを支える。
そして。
ここで一つの問題に気がついた。
お腹がすいたんですか、と彼女は言った。
赤ん坊が腹をすかせたとき、母親がすることは一つだ。
待て。
待ってくれ。
俺には前世の記憶がある。細かいことは思い出せなくても、大人として生きていたという自覚だけは、はっきりとある。
その大人が、今から、見ず知らずの女性に――
身体は待ってくれなかった。
意思とは関係なく口が勝手に動く。吸う。飲む。喉が鳴る。
理性が「待て」と叫んでいる間に、本能が「いただきます」を済ませていた。
屈辱だった。
そして、とんでもなく美味かった。
前世で食べたどんな料理よりも身体がこれを求めている。細胞の一つ一つが「これだ」と言っている。理性の抗議は三口目あたりで聞こえなくなった。
大人としての尊厳と引き換えに、俺は満腹を手に入れた。
そのまま強烈な眠気が襲ってきた。
なるほど。先ほど意識を失ったのは未熟な身体が睡魔に耐えられなかったからか。
赤ん坊が一日の大半を寝て過ごすのは、知識としては知っていた。まさか当事者として体験することになるとは思わなかったが。
「たくま、今日はよく泣くなあ」
「元気なのはいいことですよ」
夫婦の会話が遠くなっていく。
たくま。
たぶん、俺の名前だ。
さて、次は【STATUS】の……確……認を……。
それから何度か断片的な意識の覚醒と消失を繰り返した。
目覚めて、泣いて、飲んで、眠る。
人間の営みとしてこれ以上削れる部分はないというくらい簡素な生活だ。
授乳の気まずさには五回目あたりで慣れた。
慣れた自分が少しだけ嫌だった。
そのたびに意識を保てる時間は少しずつ延び、今では周囲を考察する程度の余裕も生まれている。
まずはこの短い時間で判明した【STATUS】について整理しておこう。
【STATUS】と強く意識すると新たな画面らしきものが視界に広がる。
目を閉じていても見える。というより目とは関係のないところに映っている感覚だ。
それがこれだ。
【STATUS】
■基礎能力▽
パワー G 1 / 1▽
テクニック G 1 / 1▽
コントロール G 1 / 1▽
スピード G 1 / 1▽
スタミナ G 1 / 1▽
レスポンス G 1 / 1▽
■ショット▽
フォアハンド G 1 / 1▽
バックハンド G 1 / 1▽
サーブ G 1 / 1▽
ボレー G 1 / 1▽
スマッシュ G 1 / 1▽
■球種▽
フラット G 1 / 1▽
スピン G 1 / 1▽
スライス G 1 / 1▽
キック G 1 / 1▽
■コート適性▽
グラス G 1 / 1▽
クレー G 1 / 1▽
ハード G 1 / 1▽
■特殊能力▽
センス○▽
練習効率上昇
天才肌▽
獲得経験点上昇
■経験点▽
■成長タイプ▽
■ミッション一覧▽
この【STATUS】だが、操作可能な箇所がいくつもある。
すべて開くと大量の買い物をしたあとのレシートのような有様になり、目が滑る。おまけに開いた項目が多いほど早く眠くなる気がする。
フラット、スピン、スライス、キック。洗剤の売り場にでも並んでいそうな名前だ。
キックに至っては何を蹴るのかも分からない。
フォアハンドにサーブ。球種にコート適性。
これらの項目からステータスが俺に何をさせたいのか、なんとなく分かった。
前世でテニスをやったのは数回程度。学生時代の体育と、社会人になってから誘われた一度きりの草テニス。オリンピックの中継をテレビで見たこともあったか。
最後に見たのは、たしか東京の大会だ。客席が空っぽで、メダルを掲げる選手の後ろに青い座席だけがどこまでも並んでいた。
ずいぶん寂しい表彰式だと思った覚えがある。拍手の代わりにカメラのシャッターの音ばかりが響いていた。
ああ、それと漫画でも知っている。あれを同じ競技として扱っていいのかは疑問だが。
まあ、つまり――このステータスは俺にテニスをさせたいわけだ。
ほかに分かることはないかと試しにパワーの横にある▽へ意識を向ける。
パワー G 1 / 1▽
上限解放 1 / 1 → 1 / 2
必要経験点
パワー 10
経験点を消費すれば右側の数値を増やせる仕組みだ。左が現在の能力値で右が上限値といったところだろうか。
経験点の入手方法は不明。説明書もない。最近のゲームなら最初の五分でチュートリアルが始まるというのに。
特殊能力の二つ、センス○と天才肌も、どの程度の効果なのかは書かれていなかった。
転生特典というやつだろうか。少なくとも不利になる能力ではなさそうだ。
成長タイプの項目は名前からして眠気と戦いながら決めていいものではない気がした。後回しにする。
残るはミッション一覧。
■ミッション一覧
・ラケットを握る▽
・テニスボールを打つ▽
・ラリーを十回続ける▽
・試合に出場する▽
・公式戦で初勝利する▽
・大会で優勝する▽
表示はその下にも続いている。
県大会。全国大会。国際大会。
いったい、いくつあるんだ。
一番下まで移動できないか。
そう意識した瞬間、一覧が勢いよく流れた。
どうやら、ある程度はこちらの意思を読み取ってくれるらしい。不親切なのか親切なのかはっきりしてほしい。
やがて表示が止まる。
そこにはほかの項目から離れるように一つだけミッションが残されていた。
■最終ミッション▽
達成条件
四大大会全制覇
達成期限
三十歳
四大大会。聞いたことはある。テニスで有名な四つの大会。グランドスラム、とも呼ばれていた。それらすべてで優勝を経験すること。
同じ年に四つ全部を取れ、とは書いていない。期限までに四つをそろえればいい。中継の解説者はたしかキャリア・グランドスラムと呼んでいた。
せめてもの情けだろうか。
テニスを数回しか経験したことのない人間にとって、あまりにも遠い目標だ。
草テニスでダブルフォルトを連発した記憶がこんなときに限って鮮明に蘇ってきた。昨日の夕飯は思い出せないのに。
抜け落ちているのは自分の暮らしの細かいところばかりだ。
見たものや覚えたことの方は妙に残っている。
成功報酬
成功報酬の欄には何も表示されていなかった。
達成するまで明かされないのか。
それとも最初から存在しないのか。
そしてその下にはもう一つ見過ごせない項目があった。
失敗ペナルティ
心停止
一瞬、意味を理解できなかった。
ペナルティというからには、せいぜい能力の減少か。そういうものを想像していた。
だがどれだけ見つめても文字は変わらない。
胸の奥で、小さな心臓がとくとくと鳴っている。生まれてまだ何日も経っていない、この身体で一番新しい部品だ。
その音が急に、期限つきの借り物のように聞こえた。
三十歳までにグランドスラムを制覇できなければ――俺は死ぬ。




