第48話 試合より練習
一九九六年の十月、日曜日の本家のコートに藤代圭が来た。
圭がこのコートに来るのは三年半ぶりだった。
小二の終わりの春、中学になったら見てやる、と言いに来て以来だ。
フェンスの外に立って、俺と千夏のラリーをしばらく見ていた。
千夏は父親に気づいていた。気づいていて、振り向かなかった。
ボールだけを見て打ち続けていた。
ラリーが切れたところで、圭がフェンスの扉を開けずに言った。
「丹羽くん」
「はい」
「協会から、話がある」
圭は手に持っていた封筒をフェンスの隙間から差し出した。
「十二月。十二歳以下の、国際大会の遠征だ。海外」
封筒を受け取った。
協会の名前が印刷されていて、中に遠征の日程と、行き先と、選ばれた選手の名前が並んだ紙が入っていた。
名前はまだ三つしか埋まっていない。四つ目の欄が空いていた。
「推薦できる枠が、一つある」
圭はそれだけ言った。
頭の中にミッションの一覧が浮かんだ。国際大会に出場する。
去年の夏からずっと一番上にある行だ。
この封筒の空いた欄に名前を書けば、あの行は年内に消える。
十二歳以下に出られるのは、俺の生まれだと今年の暮れまでだ。
「行け、とは言わない」
圭はフェンスの向こうから俺の手の中の封筒を見ていた。
「行くな、とも言わない」
それから付け加えた。
「決めるのは、君だ」
千夏がネットの向こうでラケットを下げていた。
封筒を見て、それから父親を見た。圭は娘の方を見なかった。
返事は週末まででいい、と言って帰っていった。
千夏は父親の背中が見えなくなるまで、ラケットを下げたまま立っていた。
夕方、本家の縁側で封筒の中身を悠蔵に見せた。
悠蔵は日程の紙を上から下までゆっくり読み、それから紙を置いて、いつものように聞いた。
「で、いくら損するの?」
すぐには答えなかった。頭の中で数えていた。
遠征に出ると十日、本家のコートでも公園の壁でも打てない。日曜の練習の七回分の経験点が、ほとんど消える。
国際大会の一行の報酬は、多くて三回分。
それに、あの行は逃げない。十四歳以下にも、その上にも、国際大会はある。
もう一つ。世界だ。
前世の記憶の中で、やがて世界の頂点に並ぶ四人。
生まれは、俺より三つ上から三つ下まで散らばっている。
今年の暮れ、上の何人かはもう十二歳以下を出ていて、下の何人かはまだ九つか十だ。
四人がそろう場所ではない。
ただ、国際大会の結果は紙に残り、紙は海外のコーチや協会の手に回る。
今出ていけば、紙の上で向こうにも俺が見える。
向こうに名前が届くのは、届いても構わないくらい伸びてからでいい。
「時間」
悠蔵は目を細めた。
「時間ね。ふうん」
悠蔵はそれ以上聞かなかった。
一歳半の正月にお年玉を株にしてくれと言ったときから、この人は理由を一度も聞いたことがない。
悠蔵は新聞をたたんだ。
「じゃあ、やめとこ」
「うん」
「藤代さんには、僕から言っとく?」
「自分で言う」
「そう」
悠蔵は新聞を顔の上に載せた。
土曜日、スクールの帰りに藤代家の玄関で封筒を返した。
「行きません」
圭は封筒を受け取って、空いたままの四つ目の欄をしばらく見ていた。
「……そうか」
それから封筒を下駄箱の上に置いた。
「なら、日曜も打て」
一つだけ言うとは言わなかったが、一つだけだった。
翌週の火曜日、公園の壁の前で千夏が打っていた。
俺が行くと千夏は振り向かずに言った。
「断ったんでしょ」
「うん」
「お父さんから聞いた」
千夏は壁に向かってフォアハンドを打ち、跳ね返ってきたボールを、また打った。
「出ればいいのに」
「……」
「国際大会だよ。海外だよ。四人しか行けないんだよ」
また打った。
壁の、子どもの背の高さのところに、ボールの跡が右から左まで均等に並んでいる。
六年前、俺が打ち分けてつけた跡だ。
その上の少し高いところに、千夏の跡が重なっている。
「あたしなら、出る」
千夏はそこで振り向いた。
「呼ばれたら、絶対出る」
女子の枠は今年の千夏には届かなかった。
全国のベスト8では、推薦の欄に名前は載らない。
呼ばれた俺が断った。
「なんで」
理由は全部は言えない。
STATUSのことも、経験点のことも、三十歳の期限のことも、前世の記憶の中の四人のことも。
言えることだけ言った。
「練習の方が、伸びる」
千夏はしばらく俺の顔を見ていた。
嘘はついていない。全部も言っていない。千夏の顔を見る限り、両方ばれている。
「……ずるい」
「何が」
「そういうの、ずるい」
千夏は壁に向き直り、ボールを高く投げ上げて思い切り打った。
今日一番強いボールだった。
ボールは壁の、千夏の跡のさらに上に当たって大きく跳ね返り、公園の植え込みに飛び込んだ。
千夏は植え込みの方をしばらく見ていた。
「……今の、拾ってきて」
「なんで俺が」
「ずるいから」
理屈はよく分からなかったが、植え込みにボールを拾いに行った。
後ろで千夏がまた壁に打ち始めた音がした。
今日の千夏のボールは、どれも先週より少し速かった。
一九九七年の元日、本家の縁側で悠蔵と並んで座っていた。
十二月の遠征は、空いた欄に別の誰かの名前を入れて出発して帰ってきたらしい。
結果は協会の紙で回ってきたが、読まずに悠蔵に渡した。
悠蔵は今年は寝転んでいなかった。
膝の上に手帳を開いていて、方眼のページに四角がいくつも描いてある。
塀の向こうはハードコートになった空き地だ。
コートの向こうには、祖父が買った土地がまだ雑草のまま残っている。
「で、次は?」
悠蔵が聞いて、答える前に、自分の方が続けた。
「中学になったら、藤代さんが見るんでしょ」
「うん」
「場所、要るよね」
「コート一面じゃ、足りないでしょ。藤代さんが見るなら。千夏ちゃんも、美咲ちゃんも打つなら。雨の日も、打つなら」
全部そのとおりだった。
手帳の四角は三つ並んでいて、その上に屋根らしい線が一本引いてある。
隅には、アメリカの株の名前らしい英字が小さく書き込まれていた。去年の元日より一行増えている。
座敷の方から祖父の足音が近づいてきた。
祖父は縁側に来ると、懐から封筒を一つ出して俺の前に置いた。
「ほれ」
お年玉の袋ではなかった。町の写真屋の封筒だった。
「……何、これ」
「パスポートの写真だ。予約しといたぞ。三日の朝、十時」
悠蔵が横でゆっくりと天井を見上げた。祖父は胸を張っていた。
「海外に行くんだろう。孫が、国の代表で」
どうやら祖父の耳には、遠征の話の前半だけが入ったらしい。
断ったという後半も十二月という日付も、どこかで落ちた。
「じいちゃん」
「なんだ」
「もう終わった。行かなかった」
「……ん?」
「断った。十二月だった」
祖父はしばらく封筒と俺の顔を交互に見ていた。
それから封筒を懐に戻して、考えてから、また出した。
「なら、美咲の分にする」
美咲はまだ九歳で、国の代表になる予定もない。
祖父は座敷の方へ戻っていき、美咲を呼ぶ声が聞こえた。
悠蔵が手帳で口元を隠していた。
「写真代は、誰持ち?」
「じいちゃん」
「なら、親父の損だね。こっちの四角には響かない」




