第49話 卒業
一九九七年の二月、市の冬のジュニア大会で美咲が決勝に出た。
十歳以下の部。美咲は小学三年生で、赤いラケットは三本目になっていた。
客席には丹羽家がいつものように総出で、今日は千夏も来ていた。
美咲のテニスは、俺の言ったとおりのテニスだった。
ボールを最後まで見る。足をボールに合わせて動かす。
打ったら真ん中に戻る。肘を先に出す。
入学の春から一つずつ言ってきたことを、美咲は一つも捨てていなかった。
言われた順番に、言われたとおり全部やる。
縛りはない。美咲には縛りを入れる理由がない。
目立って困ることもないし、STATUSもない。
ただ全力で、兄の言ったとおりに打つ。だから強かった。
相手の四年生の子は美咲の正確さにゲームごとに押されていった。
六対三。
美咲はネットの前で相手と握手をした。
表彰式が終わると、受け取った賞状を両手で頭の上に掲げて、客席に向かって走ってきた。
「おにいちゃんの、いうとおりにしたら、かった!」
客席の何人かが笑った。千夏も笑った。
「たくまより、うまいかもね」
「かもね」
「否定しないんだ」
「美咲は、上手い」
本当のことだった。九歳の美咲は九歳の俺より上手いと思う。
俺には九歳の頃にSTATUSと経験点があったが、教えてくれる兄はいなかった。
ただ、賞状を掲げて走ってくる美咲を見ながら、別のことも考えていた。
美咲のテニスには、俺の言葉しか入っていない。
相手が俺の言葉の外のことをしてきたら、美咲はどうするのか。
言ったことしか、しない。それは今日のところは強さだった。
フェンスの外で、祖父が賞状ごと美咲を抱き上げていた。
「間違っちゃいねえ!」
何が間違っていないのかは、祖父本人にも分かっていないと思う。
祖母が祖父の背中を軽く叩いた。美咲の足が地面に戻った。
三月、あさひ台小学校の卒業式だった。
体育館の入口で父が上着の内ポケットを何度も確かめていた。
カメラと、ハンカチと、卒業式のしおり。
受付で名前を書いて父兄の席へ向かう途中で、父は廊下を曲がった。
体育館と反対の方へ。
「あなた」
母が呼び止めた。
「……こっちじゃないのか」
「体育館は、あっちですよ」
「あっちか」
父はしおりの地図を見て、それからしおりを内ポケットにしまった。
首都高の出口と同じくらいの、見事な曲がり方だった。
この人は大事な日に必ず一回、道を間違える。
卒業式は長かった。校長先生の話と、来賓の話と、在校生の送る言葉。
入学式の日、隣の席の千夏は「なんでいるの」と言った。
その千夏が、今日は同じ列の三つ向こうで背筋を伸ばして座っていた。
帰り道、校門のところで千夏が待っていた。
丹羽家と藤代家の大人たちは校門の前で写真を撮り合っている。
千夏の母親と俺の母が、同じ桜の木の前で何枚もシャッターを切っていた。
桜はまだつぼみだった。
千夏は卒業証書の筒を手の中で回していた。
「中学でも、スクール、行くから」
「うん」
「部活には、入らない」
「うん」
「たくまも、入らないんでしょ」
「入らない」
千夏は筒を回すのをやめた。
「それから」
「うん」
「本気、出させるって、言ったよね」
自動販売機の前で、貸しの缶と一緒に言われたことだ。
「言った」
「覚えてる?」
「覚えてる」
「……なら、いい」
千夏は筒で俺の肩を軽く叩いて母親たちの方へ歩いていった。
千夏の母親に桜のつぼみの前に立たされて写真を撮られている。
千夏は少しも笑わずに、筒を胸の前に持って、まっすぐカメラを見ていた。
撮り終わると千夏の母親が俺を手招きした。
「琢真くんも、一緒に」
千夏と並んでつぼみの前に立った。シャッターの音がした。
千夏は最後まで笑わなかった。
卒業式の週の日曜日、本家のコートに藤代圭が来た。
去年の秋はフェンスの外に立ったままだった。
今日は入口からコートの中に入ってきて、真ん中で立ち止まって俺を見た。
「一つだけ言う」
「はい」
「……四月からだ」
このコートで前に、一つだけ、と言ったときは二つ言った。中学になったら見てやる、それまでは試合に出ろ。
今日はちゃんと一つだった。
圭はコートの反対側に回って、ボールを一つ俺の方へ打ってきた。
打ってみろ、ということらしい。
縛りは入れなかった。この人には嘘の打ち方はばれる。
全国の会場で、楽しそうに下手をやるな、と言われてもいる。
フォアハンドを打った。
フラット。まっすぐで速くて深い。試合でこの人に見せたことのないボールだった。
打った瞬間、ベンチの方で千夏が立ち上がったのが視界の端に見えた。
圭は返してきた。引退した元プロのボールは、この町の誰のボールより重かった。
三球目から圭の返球が一球ごとに深くなった。試すボールから、打ち合うボールに変わっていく。
十球ほど続けて圭がボールを止めた。
ラケットを下ろし、俺のフォアハンドの残像でも見るようにしばらくコートの一点を見ていた。何も言わない。
千夏は立ったまま、ベンチの背もたれを両手で握っていた。
圭はコートを出るときに娘の方を見た。千夏も父親を見た。言葉はなかった。
圭がほんの少しうなずき、千夏も同じだけうなずいた。藤代家の会話は、相変わらず字数が少ない。
千夏は父親が出ていった入口を見てから、俺の方へ歩いてきた。
「今の、まだ全部じゃないでしょ」
「……うん」
嘘はつけない。今のは本気の手前だった。
「なら、貸しはそのまま」
缶一本分の貸しは、中学まで持ち越しになった。
三月の終わりの夜に布団の中で【STATUS】を開いた。
■基礎能力▽
パワー E 45 / 46▽
テクニック E 47 / 48▽
コントロール E 47 / 47▽
スピード E 48 / 49▽
スタミナ E 44 / 45▽
レスポンス E 49 / 50▽
全部、E。
去年のこの夜はEが二つだった。
一番先を行っているのはレスポンスで、上限は五十に届いている。Eの次がいくつから始まるのかは、まだ表示に出たことがない。
ミッションの一覧に切り替えた。
■ミッション一覧▽
・国際大会に出場する▽
・プロの大会に出場する▽
・プロの大会で初勝利する▽
一番上は一年半変わっていない。自分で、変えなかった。
三十歳まで、あと十七年。
四月から中学生になる。藤代圭が見る。
塀の向こうの雑草の土地には、悠蔵の手帳の四角が建つらしい。
小学校の後半で手に入れたのは、ミッションの報酬と、試合は割に合わないという結論と、つまらないという言葉。
……並べてみると、ずいぶん景気の悪い成果表だ。
三年前、二つ目に足だと教えると、美咲は次の日から足ばかり動かしてボールを見なくなった。二つを一緒にできるまで三か月かかった。
あの子の中の順番は、俺が言った順番のままだ。
四月からあの子は四年生になる。
一つ目を一番上に置いたのは俺だ。
置き直すのが誰の仕事なのかは、考えないことにして布団をかぶった。
目を閉じると、壁の向こうから美咲の寝言が聞こえた。
「……さいごまで、みる……」




