第47話 連覇
一九九六年の七月の終わり、世田谷の会場は去年と同じように蒸し暑かった。
首都高の出口は、今年も一つ通り過ぎた。もう誰も何も言わなかった。
今年の縛りは二つ。サーブは全部キック。
ポイントを決めるのは、スマッシュだけ。
キックはサーブでしか使わない球種で、サーブを上から打たなければ一生動かない。
去年まで下から打ったりネットに出たりしているあいだ、一番下に取り残されていた。
スマッシュも、ネットに出る練習を始めるまで、ほとんど伸ばしてこなかった項目だ。
ラリーでは相手のコートの真ん中につなぐだけにして、浮いてきたボールだけをスマッシュで叩く。
一回戦の相手は四国の六年生だった。
コイントスの前、ネットの前で向かい合った。
相手は俺の顔を見なかった。コインを見て、ネットの白帯を見て、自分の靴を見ていた。
去年の全国を見ていたのかもしれない。
ネットに突っ込んで全国で一番になった、去年の五年生。
最初のサーブを上から打った。
トスを頭の少し後ろに上げて、ボールの下から上へこすり上げる。
ボールはネットを高く越えて相手のコートで大きく跳ねた。
相手の肩の高さまで跳ねて、相手のラケットの上の方に当たった。ふわりと浮いた返球をスマッシュで叩いた。
去年は一ポイント目で笑い声が起きた。今年は誰も笑わない。
笑われるのにも慣れてきたところだったので、いささか拍子抜けする。
去年の噂はこの大会に出る子たちの間にもう行き渡っていた。
下手に見えても勝つ。どんなに変なことをしても、最後は勝つ。
下手に見せる意味が、半分なくなっていた。
握手のとき、相手の手は汗で湿っていた。六対〇で、最後まで目は合わなかった。
決勝は去年と同じセンターコートだった。
相手は東海の六年生だった。ここまで勝ち上がってきた子だから強い。
ストロークが安定していて足が速く、俺のつなぎのボールを一球もミスせずに返してくる。
ただ、俺のキックサーブは跳ねる。
跳ねたボールを返そうとするとボールが浮く。浮いたボールを俺はスマッシュで叩く。
一ゲーム目。二ゲーム目。三ゲーム目。
四ゲーム目の途中で相手の打ち方が変わった。
それまでは俺の浮き球を誘うボールをコートの隅に散らしていた。
勝つための打ち方だった。
今は隅を狙わない。
一球一球、深く低く、ネットのすぐ上を通すように打ってくる。浮かせない。叩かせない。
点を取りに来るボールではない。点を取られないためのボールだ。
この子は一ゲームだけを取りに来ている。
勝つのはもう諦めて、せめて〇のまま終わりたくないのだ。
気づいたとき、手が止まりかけた。
一ゲーム、あげることはできる。
サーブを少し甘くして、浮いたボールをスマッシュせずにつなぎ直せばいい。〇で終わるよりは、ずっとましな帰り道になるだろう。
ラケットを握り直した。
それは縛りじゃない。縛りは俺が伸びるためのもので、相手に配るものではない。
譲ったゲームを、この子はたぶん自分で取ったと思って帰る。
俺だけが、取らせたと知っている。それは嫌だった。
五ゲーム目。
相手の低いボールを、俺も低く返した。浮かせなかった。
ネットのすぐ上を、同じ高さのボールが行って戻ってくる。
ラリーが二十球を越えた。
相手のボールが、ほんの少し浮いた。
打った。
六ゲーム目も同じだった。
最後のポイントは、相手がネットのすぐ上を通そうとしてほんの少しだけ高くなったボールを、スマッシュで叩いた。
相手はベースラインの後ろで膝に手をついていた。
しばらくしてネットまで歩いてくると、握手の手をしっかりと握ってきた。
目が合った。向こうは逸らさなかった。
六対〇のスコアボードの方は、一度も見なかった。
表彰台は木の箱を三つ並べただけのものだった。
真ん中の、一番高い箱に上がった。一年前と同じ場所、同じカップだ。
表彰の言葉を聞きながら、頭の中で今日の試合を数えていた。
キックサーブの経験点がいくつ入ったか。スマッシュはいくつか。
決勝でラリーが二十球を越えたとき、つなぎのボールの経験点は入ったか。入った。少し。
決勝の相手の最後の目を思い出した。
一ゲームを取るために、一球一球を打っていた子。
あの子が誇りを賭けて打った二十球も、俺の側では「少し」の一語に収まる。
そこまで数えて、ようやく言葉が出てきた。
……つまらない。
出てきてから、少し驚いた。去年は数字しか出てこなかった。
勝つのが分かっている試合を、分かっているとおりに勝った。
負けるかもしれないと思った試合は、まだ一つもない。
去年、楽しそうにと圭は言った。
外から見ればそう見えるのだろう。
前世の記憶の中の、テニスの中継を思い出した。
どちらが勝つか分からないまま五セット目まで続き、客席が息を止めて一球を見ている試合。
俺の試合で、息を止めている人はいない。
拍手が起きた。表彰台の前で係の人がカップを差し出していた。
受け取って客席を見た。
千夏がいた。
今年、千夏は関東を抜けて全国に来ていた。
女子の部でベスト8。準々決勝で優勝した六年生に負けた。
千夏は客席の一番前でまっすぐにこちらを見上げていた。
手すりを両手で握っていた。
つまらないと思った。そのことは千夏には言わない。
千夏はこの会場で女子のベスト8を、一年かけて取りに来た。十月のコートで「もう一回」を繰り返した、その一年だ。
カップを持ち上げると、拍手が大きくなった。
会場の出口で知らない大人に呼び止められた。
首からカメラを下げて手帳を持っていて、千葉の地元紙の記者だと名乗った。
「丹羽くん、二連覇おめでとう。少し、いいかな」
父が後ろから、どうぞ、という顔をした。記者は手帳を開いた。
「まず、優勝した感想は?」
「嬉しいです」
表彰台の言葉はまだ胸のどこかに引っかかっている。
それでもカップは重かったし、二度目でも重かった。どちらも本当なので、片方だけ答えた。
「決勝は、ゲームを一つも落とさなかったね。何か、作戦は?」
「サーブを、よく跳ねるように打ちました」
「なるほど。練習は、どれくらい?」
「毎日です」
記者はうなずきながら書いていたが、手帳から顔を上げて、笑った。
「最後に、好きな食べ物は?」
地元紙の、子どもの記事の定番らしい。
好きな食べ物。頭の中ですぐに答えが出た。
去年から、ときどき前の日に食べたものと、次の日のSTATUSを見比べている。
何を食べた次の日に身体が軽いか。どの項目の経験点がよく入るか。
「経験……」
「え?」
「……からあげ、です」
「からあげ。いいね」
記者は手帳に「からあげ」と書いた。後ろで父が吹き出していた。
口を手で押さえて肩を震わせている。
何がそんなにおかしかったのかは聞かなかった。
聞けば、こちらも「経験」の続きを言わなければならなくなる。
記者が去ったあと、駐車場の方から悠蔵が歩いてきた。
今年も客席の一番後ろで新聞を読んでいたらしい。
「おめでとう、ちび一号」
「うん」
「で、いくら損したの?」
悠蔵は試合のたびにそう聞く。参加費と交通費と宿代と、二日分。
今日は何と答えるか考えた。
「一ゲームも」
悠蔵は目を丸くして、それから喉の奥で短く笑った。
「一ゲームも損してないなら、黒字だね」
そう言って先に駐車場へ歩いていった。
つまらない試合は黒字だった。帳簿の上では、だが。
帰りの首都高で、父は出口を一つも通り過ぎなかった。初めてのことだった。
家の前で車が止まると、助手席の母が膝の地図をたたんだ。
「今日は、地図の出番がありませんでしたねえ」




