第46話 今日の速さ、もう一個
一九九五年の十月、日曜日の本家のコートは少し風が冷たくなっていた。
千夏がネットの向こうで構えていた。
「今日の速さ」
「うん」
「もう一個」
四年前の冬、俺は千夏に黙って、毎週ボール一個分ずつ速くしていた。
美咲にばらされて千夏に怒られ、それからは千夏が「今日の速さ」を受けに来るようになった。
今は千夏の方から上げろと言ってくる。夏の全国のあとからだった。
先週よりボール一個分だけ速いボールを打った。
千夏は前に出て返してきた。返ってきたボールも先週より速い。
ラリーが続いた。十球を越えたあたりで、俺はボールをほんのわずかに緩めた。
千夏の足が止まった。ボールを打ち返さず、ラケットを下げて俺を睨んだ。
「今の、遅くした」
「……少し」
「なんで」
「足が、遅れてた」
「遅れてても、いい」
千夏はボールをポケットから出して自分で打ち始めた。
「遅くするなら、最初から言って。黙って遅くするのは、なし」
今度は、黙って遅くしたのを怒られた。
どちらにしても黙ってやるのはなしらしい。
「じゃあ、戻す」
「戻して。それから、もう一個」
ボール一個分戻して、それからもう一個分上げた。
千夏は三球目で打ち負けた。
面が押されて、ボールは横のフェンスまで飛んでいった。
「もう一回!」
声がコートに響いた。五球目でまた打ち負けた。
「もう一回!」
九球目で打ち負けた。
「もう一回!」
十一球目で、千夏のフォアハンドが俺のバックハンドの深いところに入った。
俺が返し、千夏も返した。十五球目で千夏のボールがラインを越えた。
千夏はしゃがみ込んで膝に顔を埋めた。泣いているのではない。
息を整えているだけだった。しばらくして顔を上げた。
「来年は、全国に行く」
「うん」
「女子で。たくまの試合、同じ会場の選手の側から見る」
それから立ち上がって、かすれた声で言った。
「……もう一回」
十一歳の女の子が、全国小学生の優勝者にボール一個分ずつ近づいてくる。
ただ、近づかれる方も毎週ボール一個分ずつ先へ進んでいる。追いつかれる日の計算は、今のところ立たない。
昼は縁側で祖母の麦茶を飲んだ。
コートで汗をかいたあとでも、この家の麦茶は湯気を立てている。
コートでは美咲が一人でサーブの練習をしていた。
小学二年生になって、赤いラケットはもう少し大きいものに替わっていた。
フェンスの外に祖父が立っていた。
祖父は去年あたりから、フェンスの外に置いた折りたたみ椅子に座って見るようになった。
立ち上がるときに膝に手をつく、その動きが少し遅くなった気がする。
今日は立っていた。
美咲がサーブを打った。ぽん、と上がって相手のいないコートに落ちた。
「もっと強く打て!」
祖父の声がコートに響いた。
美咲は振り向いてうなずき、次のサーブを思い切り打った。
ボールはフェンスに当たった。
「強く打つな!」
千夏が小一のころに浴びていたのと同じ二つだった。
見物する相手が替わっても、台本は替わらないらしい。
美咲は固まった。
ラケットを握ったまま祖父を見て、それから縁側の俺を見て、最後に自分の手の中のボールを見た。
「……どっち?」
ラケットもボールも、どちらも離さない。
美咲は言われたことを全部正解だと思う子だ。
正解が二つぶつかると、どちらも捨てられずに止まってしまう。
祖母が麦茶の盆を持って縁側から庭に下りていった。
美咲の前にしゃがんでコップを渡す。
「美咲ちゃん」
「うん」
「じいじの言うことは、どっちも聞かなくていいのよ」
「……どっちも?」
「どっちも」
フェンスの外で祖父が咳払いを一つした。それきりだった。
美咲は麦茶を一口飲んでしばらく考えていた。
「じゃあ、おにいちゃんの、言うことは?」
祖母は縁側の俺の方をちらりと見た。
「それは、美咲ちゃんが決めなさい」
美咲はその答えがよく分からない顔をした。
俺にも少し分からなかった。
祖父が膝に手をつきながらゆっくりと折りたたみ椅子に座った。
その日、祖父はそれ以上何も言わなかった。
一九九六年の三月の終わり、布団の中で【STATUS】を開いた。
小学五年生の、最後の夜だった。
■基礎能力▽
パワー F 37 / 38▽
テクニック F 39 / 40▽
コントロール F 39 / 39▽
スピード E 40 / 41▽
スタミナ F 36 / 37▽
レスポンス E 41 / 42▽
Eが、二つ。
Gが初めてFに変わったのは小二の終わりの春だった。
あのときは二十に届くのに八年と八か月かかった。
二十から四十までは三年だった。一年に六つか七つ。
八歳から十一歳の三年間で、赤子から八歳までの八年分をほぼもう一度やったことになる。
身体が大きくなれば、上げられる上限も、上げるための練習の量も一緒に増える。
伸び方はこれから先もしばらく速くなるはずだ。
去年の夏の全国の決勝の相手を思い出した。関西の六年生。
あの子のSTATUSを見ることはできないが、ボールを受ければだいたい分かる。
パワーやスピードはたぶん二十台の後半だ。
全国で一番強かった十二歳が二十台の後半。
十一歳の俺が四十。
縛りを入れた俺と全力のあの子が、ちょうど試合になっていた。
差は数字で見ると、試合で見るよりもっと開いていた。
そして差は縮まる方向には動かない。
俺は毎年六つか七つ上がり、同年代の子たちはその半分か、それより少し。
来年はもっと開き、再来年はさらに開く。
それが困ったことなのかどうかは、表示のどこにも書いていない。
表示をミッションの一覧に切り替えた。
■ミッション一覧▽
・国際大会に出場する▽
・プロの大会に出場する▽
・プロの大会で初勝利する▽
一番上は去年の夏から変わっていない。国際大会に出場する。
十二歳以下の国際大会は日本の外にもあるし、日本の中でもいくつか開かれている。
出るには協会の推薦がいる。自分から申し込める大会ではない。
枕元に七月の全国小学生の案内が置いてあった。
申し込みはもう悠蔵が出していた。去年と同じく、関東の予選から出る。
今年の全国に出る意味を考えた。
ミッションの一覧に全国はもうない。優勝しても報酬は入らない。
市の大会の夜に決めたとおりなら、今年は出る理由がない。
それでも申し込みは出ていた。悠蔵は理由を聞かずに出した。
壁の向こうから美咲の寝言が聞こえた。
「……どっちも、きかなくて、いい……」
祖母の言葉はずいぶん深いところまで入ったらしい。
明日、祖父が何か言ったら、美咲は聞かない。
出る理由はミッションの一覧の中にはなかった。
外にだけ、あった。




