第45話 全国小学生
一九九五年七月の終わり、世田谷の会場は朝から蒸し暑かった。
首都高の出口は、一つ通り過ぎた。予想どおりだった。
全国小学生テニス選手権。
都道府県の予選と地域の大会を勝ち上がってきた子たちが、ここに集まる。
学年別ではないから、十歳の俺も十二歳の六年生も、同じドローに並んでいる。
コートに入ったところで視界の端に表示が浮かんだ。
【MISSION】
・全国大会に出場する 達成
ボレー +10
スピード +10
市や県のときより一回り大きい。大会が大きいほど、ご褒美も大きいらしい。
一回戦の相手は九州の六年生だった。
俺は関東の予選と同じように全部のポイントでネットに出た。
サーブを打って前へ。返して前へ。
一ポイント目で頭の上を抜かれた。
客席の方から声がした。
「なんだ、あの子」
笑い声が起きた。
全国の舞台でネットに突っ込んでは抜かれる十歳は、なかなか珍しい見世物だろう。
二ポイント目もネットに出た。今度は届いた。
三ポイント目。抜かれた。四ポイント目。届いた。
全国の六年生のロブは関東より少し高く、少し速い。何度か見れば、それも届く。
一回戦は六対二で勝った。
客席の端で美咲が立ち上がった。
「おにいちゃん、へたなのに、かった!」
全国大会の会場に、八歳の声はよく響いた。
周りの大人たちが振り返り、母が慌てて美咲の口を手でふさいだ。
「美咲、違いますよ、そういうことじゃないんです」
「だって、へただったよ。ぬかれてたもん」
「……それは、そうですけど」
母は否定しなかった。
隣で父が咳払いをし、祖父は腕を組んだまま大きくうなずいていた。
「間違っちゃいねえ」
祖母は今日は何も言わなかった。
日傘の柄が、小刻みに揺れていた。
二回戦、三回戦、準々決勝。
ネットに出ては抜かれ、届き、勝った。準々決勝のころには客席で笑う人はいなくなっていた。
準決勝はセンターコートだった。
周りに少し高い観客席があるだけのコートだが客席はほかより埋まっていた。
相手は東北の六年生だった。
案内の紙によれば、この大会の優勝候補で、去年の全国でベスト4。
客席で誰かが「東北のフォアハンドだ」と言った。そう呼ばれている子らしい。
確かに強かった。
ネットに出ると、低く速いボールが俺の足もとに沈んでくる。ロブではない。ネットに出た相手の、一番嫌なところだ。
置いたラケットに当たっても、ボールは浅く浮いた。浮いた球を次のフォアハンドで横に抜かれた。
二対四。
追う側に回ったのは、全国に来て初めてだった。
縛りを外してベースラインから打てば、この試合はまだ取れる。
ただ、外す理由がどこにもない。
ここで勝てば報酬は入る。負けても一行は消えない。来年もこの大会はある。
足もとの球が浮くのは止められない。浮かせる先なら選べる。
浮いたボレーを全部相手のバックハンドの深いところへ運んだ。
東北のフォアハンドはフォアハンドだから名前がついている。
相手はバックハンドで抜きに来て半分はネットにかけた。
残りの半分は回り込んでフォアハンドで打とうとして、そのたびにコートのフォア側が空いた。
三対四、四対四、五対四。
客席は静かだった。審判のコールがやけによく通る。
最後のゲーム。浮いたボレーをまたバックハンドの奥へ運ぶと、相手は大きく回り込んだ。
回り込んだ分だけ、フォア側の角が丸ごと空いていた。
そこへネットの前から短く落とした。
六対四。
握手のとき、相手はネット越しに俺のラケットを見た。
普通の、ジュニア用のラケットだった。
決勝の相手は関西の六年生だった。
準決勝を見ていたらしく、一ポイント目から俺の正面にまっすぐ強いボールを打ってきた。
正面のボールはボレーの一番やりやすいボールだ。
相手もそれは分かっていたはずで、足もとを打ち続けられるほどの球がなかったのだ。
試合は速く進んだ。
最後のポイントは、相手のパッシングをネットの前で横に跳んで止めた。
ボールは相手のコートのサイドラインの内側に落ちた。
審判のコールが聞こえた。視界の端に表示が浮かんだ。
【MISSION】
・全国大会で優勝する 達成
ボレー +15
レスポンス +12
市、県、関東、全国。
一行ずつ上がってきた、最後の行だった。全国の小学生で一番になった。
俺はネットの前に立って、自分の中を探した。
何かあるはずだった。一番になったという気持ち。
勝ったという気持ち。
出てきたのは数字だった。今の決勝でボレーの経験点がいくつ入ったか。
今の報酬で上限がどこまで広がったか。
経験点、いくつだ――。
握手をした。
ミッション一覧を開いた。
■ミッション一覧▽
・国際大会に出場する▽
・プロの大会に出場する▽
・プロの大会で初勝利する▽
全国の次は国際大会。その次はもうプロだ。
客席を見上げた。家族の席から少し離れた場所に、協会の関係者席があった。
白い帽子の大人たちが並んでいる中に、一人だけ、帽子をかぶっていない人がいる。
藤代圭だった。
協会のジュニアの仕事で全国の大会を回っていると、千夏から聞いていた。
圭は手元の紙に何かを書いていて、俺の方は見ていなかった。
表彰式のあと、会場の出口へ歩いた。
美咲が走ってきた。
「おにいちゃん! ゆうしょうの、カップ、じいじが持ってる!」
「知ってる」
「じいじ、ずっと持ってる! はなさない!」
祖父は優勝カップを胸に抱えて駐車場の方へ先に歩いていた。
祖母がその横で日傘を差しかけていた。
出口で圭とすれ違った。
協会の名前の入ったポロシャツを着て、書類の束を抱えていた。
右膝のサポーターは引退した次の春にはもう外していた。
圭は足を止めず、すれ違いざまに前を向いたまま言った。
「一つだけ言う」
俺は立ち止まった。
「……楽しそうに、下手をやるな」
それだけ言って、圭は協会のテントの方へ歩いていった。
振り返りもしなかった。
楽しそう?
意味が分からなかった。決勝のあと、自分の中を探して、経験点の数字しか出てこなかったのだ。
楽しいと思った瞬間など、思い出せる限り一度もない。
下手をやる、の方は分かる。
公園の壁の前で初めて会ったときから、あの人に嘘の打ち方はばれると思っていた。
首をかしげていると、横に誰かが並んだ。
千夏だった。今年は関東で止まって、全国には客席から来ていた。
一回戦から決勝までずっと同じ席に座っていた。準決勝の二対四のときも、立たずに座っていた。
千夏は何も言わなかった。おめでとうとも、へんなテニスとも。
黙って俺の横を歩いた。
駐車場までの道は、夕方の日差しでアスファルトが白く光っていた。
千夏は前を向いたまま歩き続け、ときどきラケットケースのベルトを握り直していた。
今日の俺はネットに出続けて全国で一番になり、本気は一球も出していない。
駐車場の手前で、千夏は一度だけ俺のラケットケースを見た。
それからポケットに手を入れて、何かを握ったまま出さなかった。
小銭の鳴る音がした。
自動販売機は駐車場の入口にもあった。千夏は前を通り過ぎて、何も買わなかった。




