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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
ジュニア・才能の隔絶

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第44話 関東の地図

 一九九五年の元日も、悠蔵は縁側に寝転んでいた。

 顔の上の新聞は、今年は英字の方だった。


「おめでとう、ちび一号」


「おめでとう」


 座敷からは美咲の声が聞こえていた。

 祖母にお年玉袋の中身を見せてもらっているらしい。


 悠蔵は新聞を胸の上に置いた。


「アメリカのやつね」


「うん」


「上がってるよ」


 ここまでは毎年同じだった。悠蔵は少し間を置いた。


「今年は、ちょっと違うね」


 目は天井を見ていた。それから胸の上の新聞を指で叩いた。

 小さな字の並ぶ面に、ペンで丸が三つついている。どれも会社の名前らしいが、数字は言わなかった。


 ちょっと違う。一九九五年だ。

 前世の記憶の中で、この年にパソコンの世界で大きなものが売り出される。


 街の電器屋に行列ができて、テレビのニュースになる。

 そこから先、パソコンは仕事の道具から家の道具になっていく。


 坂はここから急になる。


「で、今年は?」


 悠蔵が聞いた。去年までは市、県と、一つずつ答えてきた。


「関東」


「関東かあ」


「春に県の予選があって、それを抜けたら関東。関東で勝ったら、全国」


「全国は、どこ」


「東京。世田谷」


「ふうん」


 悠蔵は胸の上の新聞を持ち上げた。


「で、いくらかかるの?」


「関東は、遠征。二泊」


「宿代と、電車賃と、ご飯代」


「と、参加費」


「高くなってきたねえ」


 悠蔵はくっくっと笑った。


「まあ、いいんじゃない。アメリカのやつが、払ってくれる」


 それから新聞を顔の上に戻した。丸のついた面が、ちょうど鼻の上に来ていた。


 五月の夜、丹羽家の居間で関東の大会の宿を決めることになった。

 四月の県の予選は、もう抜けていた。


 大会の案内の紙が座卓の上に広げてあって、会場の近くの宿が二つ載っている。

 駅前のビジネスホテルと、会場から少し歩く旅館。


 悠蔵が上着のポケットから百円玉を出した。


「表なら駅前、裏なら――」


 百円玉が親指の上に乗った。その手首を、横から父がつかんだ。


「兄貴」


「なに」


「子どもの宿だぞ」


「知ってるよ」


「子どもの宿を、コインで決めるな」


 悠蔵はつかまれた手首と百円玉を交互に見た。


「……宿は、どうでもいいことじゃないの? どこに泊まっても、寝るだけでしょ」


「泊まるのは、琢真だ」


「うん」


「宿代を払うのは、兄貴だ」


「うん」


「宿代は、金のことだろう」


 悠蔵が止まった。

 どうでもいいことはコインで決め、金のことだけは数字で決める。

 この人が二十年以上守ってきた、自分の規則だった。


 百円玉を見下ろしたまま、悠蔵はしばらく何かを考えていた。


「……宿代は、金のことか」


「金のことだ」


「そうか。金のことだね」


 悠蔵は百円玉をポケットに戻して案内の紙を引き寄せた。


「駅前の方が、一泊千円高い。会場まで、電車で二駅。旅館は、歩いて十五分。朝ご飯つき」


 数字を並べると、答えはすぐに出た。


「旅館」


「旅館だね」


 父はため息をついて手を離した。


「最初から、そうしろ」


「だって、宿はどうでもいいと思ってたもん」


「何年、兄貴の弟をやってると思ってる」


 母が台所から顔を出した。


「あなた、お義兄さんの手首、まだ離してなかったんですか?」


「離した」


 隣では美咲が自分の百円玉を取り出していた。

 お年玉の一枚らしい。親指の上に乗せて悠蔵の真似をしている。


「おもてなら、からあげ。うらなら、からあげ」


 どちらでもからあげらしい。

 お年玉を株にした兄の妹は、お年玉の百円玉で晩ご飯を決めようとしていた。


 六月、関東の予選の会場は雨上がりでコートが少し湿っていた。


 ここに出てくるのは各県の予選の上位の子たちだ。

 今年の縛りはネットだった。下から打ち続けたサーブは一年でずいぶん上がった。

 キックを別にすれば、表の一番下に残ったのはボレーのGだ。


 ラリーの中でネットに詰めて打つ練習を、俺はほとんどしてこなかった。

 千夏とのラリーはベースラインの打ち合いで、壁打ちにはそもそもネットがない。


 だから今年は全部のポイントでネットに出る。

 サーブを打ったら前へ。相手のボールを返したら前へ。


 準決勝の相手は六年生だった。体が大きく、背は俺より頭二つ近く高い。

 腕も長い。


 一ポイント目、俺はサーブを打ってネットに詰めた。

 六年生は俺の頭の上にロブを上げた。


 ボールは高く、ゆっくりと俺の頭上を越えていき、振り返ったときにはもうベースラインの手前で弾んでいた。


 抜かれた。


 フェンスの外からくすくすと笑い声が聞こえた。

 去年の県大会では、ロブを上げていたのは俺の方だった。今年は上げられる方だ。


 隣のコートで、どこかのクラブのコーチが休憩中の自分の生徒に言っていた。


「ああいうのは、真似するな」


 生徒の子が素直にうなずいていた。真似はしない方がいい。

 俺もそう思う。


 それでも、詰める位置は変えなかった。

 ロブは上がった瞬間に分かる。ラケットの面が上を向き、膝が沈む。その瞬間に一歩後ろへ跳べば、半分は届く。


 届かない半分は抜かれた。届いた半分は相手のいない方へ落とした。

 ゲームは取ったり取られたりで、四対三までもつれた。


 そこで六年生がロブをやめた。

 抜けるのは半分だけだと、向こうも数えていたらしい。


 最後の二ゲーム、六年生は俺の足もとを狙って強いボールを打った。

 ネットの前で足を一歩出してボールの前にラケットを置く。

 ボールは相手のいないコートの角に落ちた。


 次も足もとだった。次も置いた。


 六対三。


 ネットの前で握手をするとき、六年生は俺の顔ではなく頭の上のあたりを見ていた。

 今日何度もロブを通した場所だ。通した回数なら、向こうの勝ちだった。


 決勝もネットに出続けて、勝った。


 その夜、遠征先の旅館の部屋で父が座卓の上に紙を広げていた。

 全国小学生テニス選手権の大会案内で、関東の予選で全国への枠に入った子にはその場で渡される。


 布団の上でミッションの一覧を開いた。



 ■ミッション一覧▽

 ・全国大会に出場する▽

 ・全国大会で優勝する▽

 ・国際大会に出場する▽



 一番上の行は動いていなかった。出場が決まっただけでは、まだ出たことにならないらしい。



 父は案内の地図を指でなぞっていた。


「世田谷か」


「うん」


「首都高、また乗るのか」


 声が低い。

 藤代圭の最後の全日本へ向かう首都高で、父は出口を一つ通り過ぎた。

 帰りも通り過ぎた。


「電車でも、行ける」


「……いや。車で行く」


 父は地図から目を離さなかった。


「子どもの試合に、親が電車で行ってどうする」


 理屈はよく分からない。分かるのは、また出口を一つ通り過ぎるだろうということくらいだ。

 大会は七月の下旬で、誕生日のすぐ近くだった。


 旅館のピンク色の公衆電話から千夏の家に電話をかけた。

 千夏も今年は関東まで来ていたが、女子は別の会場だった。


 呼び出し音が二回鳴った。


「……もしもし」


「千夏」


「……たくま?」


「どうだった」


 受話器の向こうで間があった。


「ベスト8」


 短い声だった。


「全国、とどかなかった」


「うん」


 受話器の向こうで、千夏の母親が「琢真くん、全国なんでしょう、おめでとう」と言うのが聞こえた。

 千夏はそのことには何も言わなかった。


 しばらく黙ってから、千夏は言った。


「……つぎは、いく」

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