第43話 なんで本気出さないの
一九九四年の八月の終わり、千葉県ジュニアの会場は日差しで白く見えた。
十二歳以下の部で、小四の俺から見れば、ほとんどの相手が年上だった。
縛りは五月と同じ。サーブは下から、ラリーは全部ロブ。
一回戦では市の大会と同じように笑われた。
二回戦でも笑われ、準々決勝でも最初の一ゲームだけ笑われた。
決勝の相手は六年生だった。県で一番強い、と言われている子らしい。
背は俺より頭一つ半高く、サーブを打つときにラケットが空を切る音がした。
その速いサーブを俺は高く上げて返した。
六年生は下がって打ち返し、俺はまた高く上げた。
この六年生は最初から崩れなかった。
高いボールをただ返すだけではない。下がりながら角度をつけて俺をコートの外に走らせ、走って上げたロブが少し浅くなれば前に出て叩いた。
一ゲームずつ取り合って、四対四になった。
フェンスの外の笑い声は、とうに途切れていた。セミだけは最初から最後までうるさい。
あとで美咲が二人の真似をして聞かせてくれたところでは、テントの陰で祖父が悠蔵に顔を寄せていたらしい。
「おい」
「なに」
「あれは、作戦か」
悠蔵は日よけ代わりに広げた新聞から目を離さなかったという。
「たぶんね」
「たぶんって、お前」
「僕、テニス分かんないもん」
「分からんで、よく金を出すな」
「金のことは分かるからねえ」
悠蔵の口調まで似せていたから、美咲はよほど面白かったのだろう。
四対四から、ロブの深さを変えるのはやめた。変えても、この子はついてくる。
代わりに、同じ高さのロブを打ちながら待った。
五対四。六年生は角度のついたボールで俺をコートの外へ走らせ、ロブが返る前にもう前へ詰めてきた。
浅いのを待たずに出てきたのは、今日初めてだった。
走りながら俺はそのボールをもう一度高く上げた。
下がらせるためのロブではない。前に出た六年生の頭の上を越すロブだ。
六年生は振り向いて追いかけた。追いつく前にボールはベースラインの手前に落ちた。
六対四。
握手のとき、六年生は俺の顔をじっと見た。
何か言いたそうだったが、結局何も言わずに手を離した。
【MISSION】
・県大会で優勝する 達成
コントロール +8
テクニック +7
帰り支度のとき、祖父がゆっくりと悠蔵の方を向いた。
「……作戦だったな」
「たぶんね」
女子の決勝は隣のコートで少し遅れて始まった。
千夏が決勝まで来ていた。
去年、市の大会の準決勝で負けて、帰りの車で泣いていた子だ。
相手は六年生の女の子だった。
フェンスの外から千夏のフォアハンドを見た。
速い。
毎週ボール一個分ずつ速くしていった、あのボールの続きの速さだった。
今の千夏は自分でその速さを打っている。
相手の速いボールが来た。千夏は前に出た。
下がらない。速いボールに向かって一歩前に出て打点を前に取る。
ばん、という音を聞いてボールを見失った子が、今は自分からその音の方へ出ていく。
試合は競った。千夏が取り、相手が取り、また千夏が取った。
最後の二ゲームは、年上の相手の身体の大きさの分だけ、千夏が届かなかった。
四対六。
最後は千夏のフォアハンドがベースラインを越えた。千夏はラケットを持ったまま空を見上げた。
「……あと、ちょっと」
それから指でガットの目を一本ずつ直し始めた。
フェンスの外で千夏の母親が、手が赤くなるほど拍手をしていた。
「準優勝! 千夏、準優勝!」
千夏は母親の方を見て恥ずかしそうに手を振った。
それから俺の方を見た。目が合っても、千夏はすぐにはそらさなかった。
睨まれる覚えはない。……ないはずだ。
表彰式が終わったのは夕方だった。
大人たちは駐車場で車の荷物を積み直していて、祖父がトランクに優勝カップをどう入れるかで悠蔵ともめている。
千夏と二人で会場の外の道を自動販売機まで歩いた。
八月の夕方はまだ明るかった。道の両側の畑から土と草の匂いがする。
千夏は準優勝の小さな盾を手の中でくるくる回していたが、急に立ち止まった。
「たくま」
「うん」
「試合だと、フォア、打たないよね」
俺も立ち止まった。
「去年の市の大会も、ずっとふわふわだった。今日は、下からのサーブと、ロブばっかり」
「……」
「公園だと、打つのに」
千夏は盾を回すのをやめていた。
「作戦」
去年の市の大会と同じ答えだった。嘘ではない。弱い項目を育てる作戦だ。
ただ、それで全部でもない。
「うそ」
千夏はすぐに言った。
「作戦なら、今日の決勝、あんなに長くならなかった。フォア打てば、すぐ終わってた」
俺が言わずにおいた残りの半分を、千夏は自分で言い当てた。
千夏は俺をまっすぐ見た。
「あたしとやるときも、手、抜いてるの?」
今度は半分では答えられない。
毎週ボール一個分ずつ速くしていたのを美咲にばらされた冬、嘘をつけばこの子は二度と俺のボールを信じないと思った。
今も同じだ。
「抜いてる」
千夏の顔から表情が消えた。
夕方の風が畑の方から吹いてきた。泣くと思ったが、千夏は泣かなかった。
代わりに唇をぎゅっと結んで、それからほどいた。
「ずっと?」
「ずっと」
「あたしと打つの、つまんなかった?」
「つまんなくない」
これも本当だった。
千夏はしばらく黙っていたが、やがて手の中の盾をぐっと握った。
「いつか、本気、出させるから」
「たくまが、手、抜けなくなるくらい、強くなるから」
そう言うと、千夏はくるりと背中を向けて自動販売機の方へ歩いていった。
財布から小銭を出してボタンを押し、出てきた缶を俺の方に投げてよこす。
受け取ると自分の分をもう一本買った。
「……これは、おごりじゃないから。貸しだから」
「何の貸し」
「本気出したら、返して」
缶はよく冷えていた。
十歳に借りを作るのは、前世を合わせても初めてかもしれない。
その夜、布団の中で天井を見ていた。
枕元に県大会の優勝カップがあった。
祖父が自分の家に飾ると言い張ったのを、祖母が止めてこちらに回ってきたものだ。
ミッションの一覧は一行進んでいた。
■ミッション一覧▽
・全国大会に出場する▽
・全国大会で優勝する▽
・国際大会に出場する▽
全国大会は来年だ。
目を閉じると、夕方の道で盾を握っていた千夏が浮かんだ。
五歳の千夏は俺についてきた。ベンチに座って壁の前の俺を毎日見ていた。
次の年、スクールにも、あたしも、と言ってついてきた。
ついてくる子が、いつの間にか追いかけてくる子になっていた。
それを嬉しいと思い、なぜ嬉しいのかを考えて、苦笑した。
千夏が強くなれば、千夏とのラリーで入る経験点が増える。
相手が強くなるのは悪くない。
十歳の女の子が、泣かずに本気を出させると言った夜に、真っ先に経験点のことを考えている。
我ながら、ひどい男だと思う。
枕元の飲み終えた缶を見た。貸し、と千夏は言った。
本気を出したら返す。
空き缶を返すわけにもいかないので缶は机の引き出しにしまった。
祖母に見つかったらごみだと思われる。
こちらから返しに行く前に、千夏の方が取り立てに来そうな気はする。




