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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
ジュニア・才能の隔絶

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第42話 美咲、ラケットを持つ

 一九九四年の四月、美咲が小学校に上がった。


 入学式の前の週末、本家の座敷で祖母が美咲に聞いた。


「美咲ちゃん、入学のお祝い、何がいい?」


 ランドセルはもう母方の祖父が買っていた。

 選挙の握手と同じ勢いで、真っ赤なものを。


 美咲は少しも迷わなかった。


「おにいちゃんと、おなじの」


 座敷の全員が俺を見た。俺が持っているもので美咲が欲しがりそうなもの。

 答えは一つしかなかった。


 縁側で新聞を顔に載せていた悠蔵が、新聞をずらした。


「ラケットね」


「うん!」


「じゃあ、行こうか」


 午後、悠蔵の車で駅前のスポーツ店に行った。

 四年前の春、俺が最初のラケットを買ってもらった店だ。


 店のおじさんは少し白髪が増えていて、美咲を見ると俺と見比べて笑った。


「今度は、妹さんか」


 壁に並んだジュニア用のラケットの前で、美咲は背伸びをしていた。

 三歳になる春から、美咲はボール拾い係だった。


 公園の壁の前でも本家のコートでも、俺と千夏の打ったボールをずっと拾い続けてきた。

 その美咲が、ついに打つ側に回る。球拾いの後任は、まだ決まっていない。


 悠蔵が上着のポケットから百円玉を出した。

 あのときと同じ手つきだった。表なら赤、裏なら青。


 出たのは裏で、俺のラケットは青になった。


「表なら赤、裏なら――」


「あか!」


 美咲が遮った。百円玉は悠蔵の親指の上で止まったままだった。


「……へえ。そう来るか」


「あかがいい。おにいちゃんのは、あおだから。美咲は、あか」


 悠蔵は百円玉をしばらく眺めてからポケットに戻した。


「まあ、いいんじゃない」


 帰りの車の中で悠蔵はハンドルを握ったまま、独り言のように言った。


「決めてる人には、コインはいらないねえ」


 美咲は後部座席でカバーをつけたままの赤いラケットを抱えて眠っていた。


 次の日曜日、本家のコートで美咲にラケットを持たせた。

 千夏も来ていて、ベンチで水筒のお茶を飲みながらこちらを見ている。


 何から教えるか。握り方、構え方、足の位置、ボールとの距離、振り方。

 直すべきことを数え始めると十も二十も出てくる。


 公園の壁の前の俺も同じだった。

 あのとき藤代圭は一つしか言わなかった。肘だ。その一つで三つが直った。


 真似をすることにした。


「美咲。一つだけ」


「うん」


「ボールを、最後まで見ろ」


「わかった!」


 下からゆるいボールを投げた。


 美咲はボールを見た。

 目を見開いて、ボールが飛んでくるのを見て、バウンドするのを見て、自分の横を通り過ぎていくのを見た。


 最後まで。ラケットは一度も動かなかった。


「みてた!」


 美咲は胸を張ってこちらを振り返った。

 ベンチで千夏がお茶を吹きそうになっていた。


「振らないと、当たらないよ」


「だって、見ろって」


「見ながら、振るの」


「おにいちゃん、ふれって、言ってない」


 言っていない。確かに言っていなかった。


 圭の「一つだけ」は、残りを全部こちらで補える相手に向けたものだった。

 六歳の美咲には、補うものがまだない。


 二つ目を言うか迷った。振れと言えば美咲は振る。

 代わりに、たぶんボールを見なくなる。


 二つ言えばどちらか一つを忘れるのが六歳だ。


 もう一球投げた。美咲はまた最後まで見て、また振らなかった。


 五球目あたりで美咲の方が何かに気づいた顔をした。

 ボールが近づいてきたとき、ラケットが少しだけぴくりと動いた。


 八球目。美咲の赤いラケットにボールが当たった。


 振ったのではない。見ていたボールの前にラケットを置いたら、当たったのだ。

 ボールは、ぽこん、と情けない音を立ててネットの手前に落ちた。


 美咲はしばらく落ちたボールを見ていた。

 それから、ゆっくりとこちらを向いた。


「……あたった」


 ベンチで千夏が拍手をした。


「あたった、あたった」


「美咲、あてた!」


 美咲は落ちたボールを自分で拾いに走っていった。

 球拾い係の癖はそう簡単には抜けないらしい。


 五月、市の大会に今年も出た。


 今年は十二歳以下の部だった。

 十歳以下で優勝した子が、同じ部にもう一度出る意味はない。


 ミッションの一覧も次は県だ。市の大会は県大会への予選を兼ねている。


 前の晩にSTATUSを開いた。スライスはこの一年でずいぶん動いていた。

 試合で使い、そのあとも練習で意識して切ってきたので、一番下にあった項目が真ん中あたりまで上がっている。


 眠ったままのキックを別にすれば、一番下になっていたのは、サーブだった。


 縛りを入れ替えることにした。

 育った項目は縛りから外し、そのとき一番低い項目を次の縛りにする。


 大会は割に合わない。それなら大会そのものを練習の献立にしてしまえばいい。


 今年の献立は二つ。サーブは全部下から打つ。

 ラリーは全部ロブで返す。


 上から打てば、今の俺のサーブでも十二歳以下の子どもには速すぎる。

 下から打てば遅い。遅いサーブを狙ったところに落とせば、コントロールの経験点も一緒に入る。


 ラリーの球で一番打っていないのがロブだった。


 一回戦。最初のサーブを下から打った。


 フェンスの外から声が上がった。


「下から!?」


 笑い声が続いた。

 相手の五年生も笑っていて、ぽん、と上がった遅いサーブを思い切り叩いてきた。


 俺はそれを高く上げて返した。


 ボールは相手のコートの一番奥、ベースラインのすぐ手前に落ちた。

 相手は後ろに下がって、見上げて、打った。


 また高く上げて返すと、相手はまた下がった。


 高いボールを後ろに下がりながら打ち続けるのは疲れる。

 しかも、いつ打っても同じ高さで同じ深さに返ってくる。


 相手は四ゲーム目あたりから、上を向いたまま足が止まった。


 六対〇。


 握手のとき、相手は首をさすっていた。


「……首、いてえ」


 フェンスの外ではまだ何人かが笑っていた。

 笑われるのも献立のうちだ。


 六月の日曜日、本家の縁側で寝転んだ悠蔵の隣に座っていた。

 市の大会は決勝まで下から打ち続けて優勝していて、県大会は八月だ。


 悠蔵はいつものように寝転んで英字の混じった新聞を顔の上に広げていた。


「アメリカのやつね」


「うん」


「少しずつ、ね」


 それだけ言って新聞をめくった。日本の株は、天井のころの半分あたりから動かない。

 悠蔵の口座の、海の向こうの分だけが、ゆっくりと坂を上っている。


 坂が急になるのは、まだ先だ。


 庭の方から、ぽこん、ぽこん、と音がしていた。


 美咲だった。土蔵の白い壁に向かって赤いラケットでボールを打っている。

 俺が昔ゴムボールを投げていた壁だ。


 打つ前に、美咲は毎回小さな声で言っていた。


「さいごまで……」


 ボールを見て、見て、ラケットを出す。


「……みる」


 ぽこん。


 悠蔵が新聞の下から言った。


「ちび二号、上手くなったねえ」


「二号」


「一号はお前ね」


 一歳半からちびと呼ばれ続けている身としては何か言い返したかったが、特に言うことが見つからなかった。


 縁側の向こうから祖母が麦茶の入った盆を持って歩いてきた。


「美咲ちゃん、ひと休みしなさい」


「あと、いっかい」


「さっきも、あといっかいって言ったでしょう」


「さいごまで……」


 祖母は盆を置いて笑った。

 最後まで見るのはボールだけにしてほしいところだった。


 美咲がまた一球打った。

 跳ね返ってきたボールも美咲は最後まで見た。


 今度はラケットがちゃんと振れていた。小さく、ぎこちなく。

 それでもボールを見たまま振っている。


 二か月かかった。一つ目が身体に入った。


 来週、二つ目を言う。たぶん足だ。ボールに合わせて足を動かす。

 ボールを見ることを忘れないくらいの、小さな二つ目。

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