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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
少年期・環境形成

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第37話 で、次は?

 一九九三年の元日も、悠蔵は縁側に寝転んでいた。


 顔に載せた新聞の見出しは、去年よりさらに暗かった。株も土地も下がり続けている。

 バブルがはじけて三年目の正月だ。


 それでも、本家の座敷は賑やかだった。祖父は上座で相変わらず大きな声で笑っている。

 建設の仕事が減っているはずなのに、この人の声の大きさだけは景気と関係がないらしい。


 俺が隣に座ると、新聞がずれた。


「おめでとう、ちび」


「おめでとう」


 悠蔵は身体を起こさずに新聞を胸の上に置いた。


「で、次は?」


 今年は何がいい、ではなく、次は、だった。


 三年前の春、この人は土蔵の壁当てをしていた俺を縁側に呼んで聞いた。で、次は何に使う。

 あのときの答えはテニスコートで、そのコートは今、塀の向こうにある。


「しあい」


 悠蔵は目だけでこちらを見た。


「試合」


「うん。しあいに、でる」


 夏にミッション一覧の一番上が入れ替わってから、ずっと考えていた。

 八歳の子どもは一人で試合に出られない。申し込んで、連れていってくれる大人が要る。


 両親に頼めば連れていってはくれるだろう。けれどこの先、試合は一つでは終わらない。

 地区から県、県から全国へと上がれば、遠征費も道具代もかかる。


 最初から、この人を巻き込んでおいた方がいい。


 悠蔵はしばらく天井を見ていたが、やがていつものように聞いた。


「で、いくらかかるの?」


「さんぜんえん」


 参加費だ。スクールの掲示板に、市のジュニア大会のお知らせが貼ってあった。

 十歳以下の部で、参加費三千円。


 悠蔵の眉がわずかに動いた。


「安いね」


「さいしょは」


「最初は、ね」


 悠蔵はくっくっと喉の奥で笑った。


「まあ、いいんじゃない」


 それから胸の上の新聞を持ち上げて、国際面のあたりを開いた。


「そうそう。アメリカのやつ、上がってるよ。少しずつだけど」


 坂の本番は二〇〇〇年のあたり。俺は十五か十六だ。

 この人の「少しずつ」が、世間の「少しずつ」と同じ大きさだとは思えない。けれど、今は株より試合だ。


 二月の夜、悠蔵が丹羽家に来た。


 夕飯のあとの茶の間で、父は珍しく早く帰ってきてこたつで湯のみを抱えていた。

 悠蔵は鞄から一枚の紙を出した。


「はい。申込書」


 市のジュニアテニス大会、十歳以下の部の男子シングルス。

 悠蔵は紙とボールペンを俺の前に置いた。


「書いて」


 茶の間が静かになった。


「字、読めるんでしょ」


 湯のみを持つ父の手が止まった。


「……兄貴」


「なに」


「琢真は、八歳だぞ」


「知ってるよ。だから、十歳以下の部」


「そういうことじゃない」


 父は湯のみを置いた。悠蔵はこたつに足を入れてみかんをむき始めている。

 まったく悪びれていない。


「平成の字、読んだんでしょ。四つのときに。和人が言ってたじゃない」


 父が黙った。


 ……言っていたのか。

 あの日、テレビの画面の「平成」を読んでしまった俺に、父は「字、読めるのか」と言った。

 その話を、兄にしていたらしい。


 父の目が俺に向いた。平成の額縁の前で俺を見たときと同じ目だった。


 俺はボールペンを握った。

 申込書には名前・生年月日・住所・学校名・所属クラブ・保護者の署名の欄がある。

 全部漢字で、きれいな字で書ける。


 だから、書かない。


 名前の欄にひらがなで大きく書いた。


 にわ たくま


 少し「わ」を傾けた。小学二年生が一生懸命書いた字に見えるように。

 それからボールペンを置いた。


「あとは、わかんない」


 悠蔵はみかんを口に放り込んで申込書を覗き込んだ。


「ふうん」


 それだけ言って残りの欄を自分の字で埋め始めた。


 父はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いて湯のみを持ち直した。


「……まあ、名前が書けりゃ、十分だ」


 そう言いながら、目だけはまだ俺の書いた「わ」を見ていた。


 悠蔵が保護者の署名欄でペンを止めた。


「和人。ここ、お前ね」


「兄貴が書けばいいだろう」


「僕は、保護者じゃないもん」


 父はまた息を吐いてボールペンを受け取った。


 三月の日曜日、本家のコートに藤代圭が来た。


 引退して四か月。

 ジャンパーではなくグレーのセーターを着ていて、右膝のサポーターはもうしていなかった。

 フェンスの外ではなく、入口からコートの中に入ってきて、ネットの横に立って腕を組んだ。


 俺と千夏は打ち合っていた。


 千夏が一球ネットにかけた。すぐ横で父親が見ている。

 それでも千夏は下がらなかった。


 十五分ほど、圭は何も言わずに見ていた。俺のボールと千夏のボールを、俺の足と千夏の足を。

 それから、俺の方へ歩いてきた。


 見上げると、圭はあの日の公園と同じ顔で俺を見下ろしていた。


「一つだけ言う」


 身構えた。今度はどこだ。足か、肩か、打点か。


「中学になったら、見てやる」


 肘でも足でもなかった。


「それまでは、試合に出ろ」


 それで、二つだ。一つだけ、と言ったのに、二つ言った。


 身構えていた肩から、力が抜けた。


 中学になったら。あと四年。


 あの日、全日本の会場の外で言いかけて飲み込んだ言葉を、この人の方から言った。


 気がついたら、ラケットを持ったまま頭を下げていた。


「おねがいします」


 ガットがネットの白帯に当たって、ぽす、と間の抜けた音がした。


 圭はうなずいて、それから千夏の方を見た。


 千夏はネットの向こうでラケットを胸の前に抱えて父親を見ていた。

 何か言われるのを、待っている顔だった。


 圭は娘を見たまま、しばらくその場に立っていた。

 口が一度だけ動きかけて、閉じた。それから踵を返して、コートの入口の方へ歩いていった。


 千夏の肩が下がった。ラケットを抱えたまま、父親の背中が塀の向こうへ消えるまで見ていた。


 三月の終わりの夜、布団の中で【STATUS】を開いた。

 もうすぐ春休みが終わって、四月になれば三年生だ。



 ■基礎能力▽

 パワー    F 20 / 21▽

 テクニック  F 23 / 24▽

 コントロール F 22 / 23▽

 スピード   F 21 / 22▽

 スタミナ   F 20 / 21▽

 レスポンス  G 19 / 20▽



 G が、F に変わっていた。


 二十に届いた五つが F になっていて、十九のレスポンスだけがまだ G だ。

 ランクの区切りの、最初の一つ。生まれてから八年と八か月かかった。

 どこまで続いているのかは、まだ分からない。


 速い球を受ける相手が、俺にはいない。

 八年で一段。この伸び方で三十歳に間に合うかは、数えるまでもない。


 表示をミッション一覧に切り替えた。



 ■ミッション一覧▽

 ・試合に出場する▽

 ・公式戦で初勝利する▽

 ・大会で優勝する▽



 次の行が待っている。申込書は悠蔵が郵便で出してくれて、大会は五月だ。


 隣の部屋から美咲の寝言が聞こえた。


「……よん、ご」


 今日は四を飛ばしていなかった。


 八歳の俺が十歳以下の子どもたちと試合をする。勝つのは難しくない。

 問題はどう勝つかだ。全力で打てば相手は泣くし、大人たちは首をかしげる。


 どこまで出して、どこで止めるか。


 縛りが、要る。

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