第38話 【藤代圭】一つだけ
氷のうを、右膝に載せた。
三月の夜だった。居間の石油ストーブが小さな音を立てている。
引退して四か月になる。試合はもうないのに、膝はまだ毎晩冷やさなければならない。
十数年、使った膝だ。冷やせと言うなら冷やす。
今日、丹羽建設の本家の隣のコートに行ってきた。
あのコートの床を「ハードにしろ」と書いたのは、俺だ。
ロンドンのホテルで、絵はがきに一行だけ書いた。妻に「それだけ?」と国際電話で笑われた。
それだけで足りると思ったし、実際、足りていた。
今日、あの床の上で、あの子はハードの跳ね方を完全に身体に入れていた。
丹羽琢真。
一九九〇年の十一月、近所の公園で初めて見た。
娘が毎日、公園で男の子を見ていると妻から聞いていたので、オフで家に帰った最初の週に様子を見に行った。
フェンスの外から、しばらく見た。
六歳の子どもが、壁に向かってボールを打っていた。
下手だった。六歳なのだから当たり前だ。普通の六歳の、普通の下手さだった。
普通でなかったのは、直し方だった。
あの子は一球ごとにどこかを直そうとしていた。直そうとしている場所が、全部正しかった。
足を直した次の球では肩を、肩の次は握りを。直すたびに別のところが崩れて、また戻る。
六歳の子どもは、普通、自分の欠点が分からない。分かっても一つか二つだ。
あの子は全部分かっていて、順番だけが分かっていなかった。
だから、一つだけ言った。肘だ、と。
この冬、協会の講習で何十人も子どもを見た。一つ言えば、子どもは一つ直して二つ崩す。
あの子は肘を寄せた次の一球で、肩と打点をついてこさせた。一つ言えば、三つ直す。
横で見ていた娘の方が、口を開けていた。
あの子の方は笑わなかった。答え合わせをした大人の顔で、壁を見ていた。
あれから二年と少し。今日コートで見たあの子は八歳で、八歳であの打ち方だ。
中学になったら、見てやる。
そう言った。言うつもりはなかった。口が先に言っていた。理由は分かっている。
世界の百位の壁を、俺は越えられなかった。百十八位。それが俺の一番上だった。
世界の上の方にいる連中は、何かが違った。身体の大きさでも、ボールの速さでもない。
もっと手前の、テニスを覚える順番のようなものが、最初から違っていた。
日本にはその順番を知っている大人がほとんどいない。
俺も自分で気づいたのは二十代の半ばを過ぎてからだった。
あの子は、その順番の一番近くにいる。
自分が届かなかった場所に、いつか日本人が届く。それを、見てみたい。
現役の最後の二年、ロンドンのホテルでも、パリのロッカールームでも、ときどきあの公園の壁を思い出していた。
「また、一つだけ言って帰ってきたんでしょう」
妻が湯のみを二つ、こたつの上に置いた。
「二つ言った」
「あら。珍しい」
「中学になったら見てやる、と、それまでは試合に出ろ」
「それ、一つの文じゃないの」
妻はからからと笑った。
「あなたの一つだけは、いつも足りないのよ。一つじゃ、足りないの」
結婚して十年近く、この言葉を何度聞いたか分からない。
足りないのは知っている。
湯のみを持って父のことを思い出していた。
父は高校の体育の教師で、テニス部の顧問だった。
俺が小学校に上がる前から、ラケットを握らせた。よく喋る人で、一球打つたびに何か言った。
足が違う。肩が違う。握りが違う。違う。違う。違う。
全部、正しかった。正しかったから、俺は強くなった。
試合でも練習でも、ボールを打つ瞬間に父の声が聞こえる。
足が違う。肩が違う。テニスが父の顔になった。
プロになってから何年もかかって、ようやくその顔を剥がした。
剥がしたころには、もう、世界の上へ行く時間は残っていなかった。
だから、娘には教えなかった。教えれば、娘のテニスは俺の顔になる。
ボールを打つたびに、俺の声が聞こえる。それだけはさせたくなかった。
……させたくなかったのだが。
「千夏、ずっと待ってるのよ」
妻が湯のみを両手で包んで言った。
「あなたが、何か言ってくれるのを。四歳のときから、ずっと」
知っている。今日もコートで、娘はラケットを胸に抱えて俺を見ていた。
俺は一つも言わずに帰ってきた。
全日本の、あの日のことを思い出していた。
最後の試合の、第一セットの途中のチェンジオーバーだった。
ベンチに座ってタオルで顔を拭きながら、客席を見た。普段は客席など見ない。
見ると集中が切れる。あの日は見た。最後の試合だったからだ。
一番前の列に娘がいた。手すりを、指が白くなるくらいに握っていた。
四歳のとき、娘はこの会場で俺の試合を見て、泣いた。
ボールが見えない、音が怖い、と泣いて、途中で妻に連れ出された。
それからずっと、娘はボールを怖がっていた。
テニスを嫌いにはならなかった。嫌いになってくれた方が、ある意味では楽だった。
怖いくせに嫌いにならず、毎日公園まで見に行く。
教えないと決めた父親には、怖がる娘にかける言葉がなかった。
その娘があの日、一番前の列で、目をそらさずに俺のボールを見ていた。
あの子のおかげだ。
ボール一個分ずつ、と娘は電話で言っていた。丹羽琢真が毎週ボール一個分ずつ速くしてくる。
ずるい。怒った。でも、もう一回って言った。
八歳の子どもが、同い年の娘の怖さをボール一個分ずつ削っていった。
俺が四年かけて一つも言えなかったことを、あの子は一年かけて、ボールでやった。
第二セットの終盤、若い選手のボールが横を抜けていった。
追わなかった。
膝のせいだと、新聞には書かれた。膝のせいでもある。
けれど本当は少しだけ、客席を見ていたからだ。
廊下で足音がした。
千夏だった。パジャマ姿で台所へ水を飲みに行くところらしい。
居間の前を通り過ぎようとして、俺を見て足を止めた。
「……ひざ、いたいの?」
「いや」
「こおり、のせてる」
「冷やしてるだけだ」
千夏は、ふうん、と言って台所へ行こうとした。
「千夏」
呼び止めた。千夏が振り返った。
八歳の娘。四歳のとき、客席で泣いていた娘。
何を言うかは決めていなかった。足でも肩でも打点でもない。
テニスのことを言えば、娘のテニスが俺の顔になる。
「一つだけ言う」
千夏の肩がびくりと動いた。
四年待たせた一つだけだった。
妻がこたつの向こうで湯のみを置く音がした。
「……ちゃんと、見てたな」
千夏はしばらく動かなかった。廊下の暗がりでパジャマの袖を握っていた。
それから、小さくうなずいた。
「……うん」
それだけ言って台所へ走っていった。水を飲む音がしばらくしなかった。
俺は氷のうを膝の上で持ち直した。
こたつの向こうで、妻が何も言わずに笑っていた。
今日は一つで、足りたらしい。




