第36話 最後の全日本
「お父さん、次でやめるんだって」
十月の終わり、公園のベンチで千夏が言った。
スクールも本家のコートもない平日の夕方は、今でもときどきこの壁の前に来る。
千夏はベンチの昔と同じ端に座っていた。ただし、もう足を引き上げたりはしない。
「つぎって」
「全日本。十一月の。それで、おしまいだって」
右膝の黒いサポーターを思い出した。
公園でも、フェンスの外でも、あの人の右足はほんのわずかに遅かった。
三十二歳。テニス選手としてはもう若くない。
「夏にね」
千夏はスニーカーのつま先で地面をつついていた。
「十回できたって、言ったの。電話で」
「そしたら、なんて」
「……見に来いって」
千夏はつま先で地面に小さな丸を描いた。
「全日本、見に来いって。それだけ」
それだけ、というのがあの人らしい。
「たくまも、来ていいって」
「おれも?」
「……お母さんが、そう言ってた。お父さんは、言ってない」
千夏はそっぽを向いた。
「お父さんは言ってない。……けど、たぶんいいって」
十一月の日曜日、東京のテニス会場はよく晴れていた。
丹羽家と藤代家で一緒に来た。
父親の運転する車に、母親と美咲、千夏と千夏の母親が乗り込んで、ぎゅうぎゅうだった。
首都高に入ったところで、父親の口数が減った。ハンドルを握る手にやけに力が入っている。
「あなた、次を右ですよ」
「分かってる」
「その次も右です」
「分かってる」
分かっていなかった。一つ出口を通り過ぎて、車内に微妙な沈黙が流れた。
後ろの席では千夏と美咲が、窓の外を流れていくビルを数えていた。
「いち、に、さん、ご」
「よん!」
「……よん、ご、ろく」
夏以来、千夏は美咲が四を飛ばすたびに訂正している。
美咲の方も訂正されるのが楽しいらしく、わざと飛ばしている節がある。
千夏は笑っていた。
けれど、会場が近づくにつれて数える声は小さくなっていき、最後の方は窓に額をつけて黙って外を見ていた。
有明の客席は思っていたより空いていた。日本一を決める大会の準々決勝だというのに、半分も埋まっていない。
これがこの時代の日本のテニスだ。
千夏は客席の一番前の列に座った。
四歳のとき、千夏はこの会場のどこかで父親の試合を見て、ボールを見失った。
今日の千夏は身を乗り出していた。
手すりに両手をかけてコートを見下ろしている。
隣で千夏の母親が娘の背中をそっと撫でていた。
選手がコートに入ってきた。紺のウェアに、右膝の白いテーピング。
藤代圭だった。
反対側から入ってきたのは、若い選手だった。まだ二十歳前後だろうか。
背が高くて、真っ赤なウェアを着ている。
美咲が立ち上がった。
「あっちのひと、がんばれー!」
赤いウェアの方に手を振っていた。
客席の何人かが振り返り、母親が慌てて美咲の口を手でふさいだ。
「美咲、違います。あっちじゃないんですよ」
「だって、あかいの、かっこいい」
美咲はウェアの色で応援する選手を決めた。
どうでもいいことはコインで決める人が身内にいるので、血筋かもしれない。
千夏の母親はお腹を抱えて笑っていた。
千夏は振り返りもしなかった。コートだけを見ていた。
試合が始まった。
最初のサーブは藤代圭だった。
ボールを高く上げる。膝を曲げる。右膝だけが、一拍遅れて曲がる。
打った。
ばん。
客席まで音が届いた。耳ではなく、胸に。
公園で子ども用のラケットから出た音とは比べものにならなかった。
横目で千夏を見た。
千夏は目をそらしていなかった。手すりを握る指が白くなって、肩に力が入っている。
それでも、ボールを追っていた。
ばん。ばん。
千夏の目がボールを追っている。追いきれているのかどうかは分からない。
三セットマッチの試合は、長くは続かなかった。
第一セットの中ほどに、こんなポイントがあった。
圭は相手のバックの深いところへ一本打ち、同じところへもう一本打った。
二本目がやっと返ってきたとき、反対側はもう空いていた。三本目がそこへ落ちた。
どの順番で崩せばいいかを全部知っている打ち方だった。
けれど試合が進むにつれて、その三本目に右膝が間に合わなくなった。
一歩遅れた分を腕で取り返そうとして、取り返しきれない。若い選手は見逃さなかった。
第一セットを落とし、第二セットの終盤、赤いウェアの若い選手の打ったボールが圭の横を抜けていった。
圭は追わなかった。
ボールがフェンスに当たる音がして、試合が終わった。
客席から拍手が起きた。まばらな客席のまばらな拍手だったが、長かった。
場内のアナウンスが、藤代圭がこの大会を最後に現役を引退すると告げると、拍手が少し大きくなった。
圭はコートの真ん中で四方の客席に一度ずつ頭を下げた。
係の人から花束を受け取って、最後に客席の一番前の列の方を向いた。
千夏と目が合ったのだと思う。
圭は小さくうなずいただけだった。千夏は手すりを握ったままうなずき返した。
千夏が手すりから指をほどいたのは、拍手がやんで次の試合の選手が入ってきてからだった。
手すりに、小さな手の形の汗のあとが残っていた。
父親が読んでいた新聞に、最高は百十八位だと書いてあった。
全日本で二回優勝した人が、世界の百位の壁を越えられずに、膝を痛めて引退していく。
百位の内側に入った日本の男子は、数えるほどしかいないらしい。
その数えるほどの中にも、前世の記憶にあるあの熱い元選手の名前はなかった。
ここが、この国の今の天井だ。
夕方、会場の外の通路で藤代圭を待った。
千夏と千夏の母親が関係者の出入口の前に立っていた。
俺の家族は少し離れたところで待っている。
父親は今日こそサインをもらうつもりらしく、色紙を持ってきていた。
持ったままずっとそわそわしている。
しばらくして圭が出てきた。スポーツバッグを肩にかけ、花束を片手に持っている。
右足の運びは朝よりも明らかに遅かった。
千夏の母親が何か言い、圭が短く答えた。千夏は父親の顔を見上げていた。
何か言いたそうな顔のまま口を閉じていた。
圭がこちらを見た。
俺は一歩前に出た。言いたいことは決まっていた。
――中学になったら、俺を見てください。肘の一言みたいなのが、俺にはあと百は要る。
引退したあなたの時間を、俺にください。
言いかけて口を閉じた。八歳の子どもの口から出ていい言葉ではない。
今日、この人は引退した。十数年の現役生活を終えた、その日の夕方だ。
言葉を選び直した。
「また、コートにきてください」
圭は俺を見下ろした。しばらく何も言わず、それからほんの少し口の端を上げた。
公園で、父親がネクタイの話をしたときと同じ角度だった。
「……ああ」
それだけだった。
後ろで、父親が色紙を持ったまま一歩前に出て、それから一歩下がった。
結局、今日ももらえなかった。
帰りの首都高で父親はまた出口を一つ通り過ぎた。
「あなた、今の出口ですよ」
「分かってる」
分かっていなかった。
後ろの席では、千夏が美咲にもたれて眠っていて、千夏の母親も窓に頭をつけて目を閉じている。
助手席の母親が地図を広げて次の出口を探していた。
俺は運転席の後ろ姿を見ていた。
今日、娘に一つも言わないと決めて、それを守り通している父親を見た。
この人はその逆だ。
今日一日で色紙を持ってきてサインをもらい損ね、首都高の出口を二度通り過ぎ、そのたびに「分かってる」と言った。
分かっていないことまで、分かってると言う。言わなくていいことまで、全部言う。
八年前、暗闇の中で目を覚ましたとき、この人は知らない男だった。
父親、という言葉は、そのとき俺が貼った札だ。この家の、この役の男。
その札がいつから剥がれていたのかは分からない。熱の夜、襖の向こうで「何もできないな」とこぼしていた声のあたりかもしれない。
剥がれきったのは、たぶん今だ。ハンドルを握り直して、次の出口の看板を目で追っている後ろ姿を見ながら。
……父さん。
声には出さなかった。八歳の子どもが、今さら改まって呼ぶ理由はない。
けれど頭の中では、もうそう呼ぶことにした。
父は次の出口でようやく首都高を降りた。
母が地図を畳みながら、「よくできました」と小さく拍手をした。




