第35話 ラリーを十回続ける
ネットの向こうで、千夏が麦わら帽子のあご紐を締め直した。
一九九二年、八月の終わり。夏休みの本家のコートは、朝の九時にはもう暑かった。
日射病になるからと、祖母が無理やりかぶせた帽子だ。
青緑色の床が日差しを照り返していて、ボールを打つたびに額から汗が落ちる。
この夏、ずっと十回を目指していた。
ボール一個分ずつの計画はあれからも続いている。今は千夏も知っていて、知った上で毎週「今日の速さ」を受けに来る。
今の俺のボールは、去年の秋のボールよりずっと速い。
スクールのコーチの球出しと同じくらいの速さになっている。
スクールの打ち合いで上の学年の子と組めば、十回はたぶんもう続く。
やらなかった。スクールの相手は毎週替わるが、千夏は毎週日曜にこのコートへ来る。最初の十回は、千夏と数えたかった。
「いくよ」
「うん」
ボールを出した。
一。二。三。
四。五。六。
七。千夏の打球が少し浅くなった。俺は前に出て返した。
八。千夏が返す。高く上がった。
九。俺は下がって返した。
千夏のラケットがボールの下をこすった。
ボールはネットの白帯に当たって千夏の側に落ちた。
九回。
千夏はネットに落ちたボールを見下ろしていた。これで今朝、三回目の九回だった。
七回で切れたのが二回、八回が四回。十回が、来ない。
千夏は麦わら帽子のつばの下で汗をぬぐった。
「まだ」
それだけ言ってボールを拾って構え直した。
俺はボールの速さを落とさなかった。落とせば十回は来る。
千夏もそれは分かっているはずで、それでも一度も「おそくして」とは言わなかった。
昼になると、本家の縁側で祖母が麦茶とスイカを並べてくれた。
「飲みなさい。二人とも、顔が真っ赤」
今日の麦茶は冷たかった。この家で冷たい麦茶が出るのは、一年のうち真夏の数日だけだ。
祖母の中で今日はそういう日と判定されたらしい。
美咲がスイカにかぶりついていた。
五歳になった美咲は、午前中ずっとコートの横で、指を折って黙って数えていた。
数える係も兼任しているのだ。本人がそう決めた。
口いっぱいにスイカを頬張って種を庭に向かって吹いた。
飛ばない。あごにくっついた。もう一回吹くと、今度は縁側の板の上に落ちた。
「美咲ちゃん、お行儀」
祖母に言われても、やめない。
三回目でようやく庭の土まで届いて、美咲は両手を上げて喜んでいた。
縁側の端では悠蔵が新聞を顔に載せて寝転んでいた。今日はたまたま本家に来ていたらしい。
祖父が座敷から出てきて、縁側に並んだ俺たちの赤い顔を見て眉を寄せた。
「おい、コートに屋根をつけるか」
祖母がスイカを切る手を止めた。
「屋根のあるテニスコートなんて、聞いたことありませんよ」
「外国にはあるだろう。雨が降っても打てるやつが」
「屋根の方が、コートより高いよ」
新聞の下から声がした。祖父は黙って座敷に戻っていき、屋根の話はそれきりになった。
千夏は麦茶のコップを両手で持って黙っていた。コートの方を見ている。
青緑色の床に、陽炎が立っていた。
しばらくして、千夏がぽつりと言った。
「十回できたら」
コップを持つ指に、力が入っていた。
「お父さんに言う」
何をとは言わなかった。俺も聞かなかった。
縁側の端で新聞の下から声がした。
「……へえ」
悠蔵は寝ていなかった。いつものことだ。
この人は縁側で目を閉じているように見えて、閉じきっていたことが一度もない。
千夏は新聞の方をちらりと見て、それから麦茶を一気に飲み干した。
夕方になった。
日が傾いて、青緑色の床の照り返しが少しだけ和らいでいた。
午後も十回は来なかった。九回が二回。
千夏の腕はもう上がりにくくなっているはずだったが、それでも「まだ」と言い続けていた。
俺の腕も重かった。八歳の身体で朝から一つの速さを保ち続けている。
速くしすぎない。遅くしすぎない。千夏がぎりぎり返せる、今日の速さ。
同じ速さで打ち続けるのは、力いっぱい打つよりずっと疲れる。
STATUSのスタミナの欄が今日だけでいつもの週の倍くらい動いていた。
「いくよ」
「うん」
ボールを出した。
「いち」
コートの横で美咲が、初めて声に出して数え始めた。
「に」
千夏が返す。
「さん」
俺が返す。
「ご」
……ご?
「ろく」
美咲は胸を張って数えていた。四が、なかった。
千夏は打ちながら美咲の方を睨んでいて、睨みながら返していた。
「なな」
「はち」
「きゅう」
「じゅう!」
美咲が両手を上げた。
ボールはまだ続いていた。
千夏が打ちながら叫んだ。
「よんが、ない!」
美咲が首をかしげた。
「……じゅう、いち?」
「じゅうじゃない!」
美咲の数え方でいう十一回目が、本当の十回目になる。
俺の打った九回目のボールが、千夏の方へ飛んでいった。
今の速さ。一年前の千夏なら一歩下がっていた速さ。
二年前の千夏なら、ベンチの上に足を引き上げていた速さ。
千夏は下がらなかった。
前に、出た。
振った。
ボールはネットを越えて、俺の方へ飛んできた。
十回。
俺はそれを返した。十一回目。美咲の数え方でいう、十二回目。
視界に表示が流れた。
【MISSION】
・ラリーを十回続ける 達成
レスポンス +5
コントロール +5
千夏の返したボールがネットにかかってラリーが終わった。
ミッション一覧の一番上の行が、消えた。
■ミッション一覧▽
・試合に出場する▽
・公式戦で初勝利する▽
・大会で優勝する▽
一番上に、試合が来た。
千夏がしゃがみ込んだ。
ネットの向こうで、ラケットを膝の上に置いて、何も言わずに。
麦わら帽子のつばで、顔が見えない。コートの横では美咲がまだ指を折って数え直していた。
「いち、に、さん……」
しばらく、誰も動かなかった。
フェンスの外で蝉が鳴いていて、縁側の方で祖母が何か言いかけて、やめた気配がした。
千夏が顔を上げた。
麦わら帽子の下で、千夏は笑っていた。
汗と、たぶんそれ以外のもので、顔がぐしゃぐしゃになっていた。
それでも笑っていた。公園のベンチで膝を抱えていた子どもの顔ではなかった。
俺は何も言わなかった。何か言えば、この子は「べつに」と言う。
べつに、と言わせるには、今日の顔はもったいなかった。
「……さん、よん、ご」
美咲が今度は四を数えていた。
「ろく、なな、はち、きゅう、じゅう」
指を全部折って顔を上げた。
「じゅう!」
千夏がしゃがんだまま声を上げて笑った。
縁側の方で、祖父が立ち上がる気配がした。
「おい、今のは何回だ!」
千夏と美咲が、同時に縁側の方を向いた。
「じゅう!」




