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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
少年期・環境形成

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第34話 ボール一個分

 十二月の土曜日のスクールの帰り道、千夏は一言も口をきかなかった。


 その日のジュニアクラスは打ち合いの練習だった。

 組み合わせはコーチが決め、千夏の相手は三年生の男子になった。

 スクールで一番体が大きくて、一番強く打つ子だ。


 打ち合い、にはならなかった。


 男子は手加減を知らなかった。自分の打てる一番強い球を毎回思い切り打ってくる。


 千夏は一球目で下がった。二球目でラケットを顔の前にかざした。

 三球目はしゃがみ込んだ。ボールはしゃがんだ千夏の頭の上を越えてフェンスに当たった。


 ばん、と音がした。


 男子は悪気なく笑っていた。コーチは「藤代、下がるな!」と言った。

 千夏はそのまま最後まで一球も返さなかった。

 レッスンが終わると、誰より先にラケットをケースにしまってコートを出た。


 今日はどちらの母親も迎えに来ていない。二人で並んで歩いて帰る日だった。

 街灯が点き始めた道を、千夏はずっと下を向いて歩いていた。鼻をすする音がときどき聞こえた。


 公園の前まで来たところで、千夏が立ち止まった。


「……やめる」


 小さな声だった。


「テニス、やめる」


 俺は黙っていた。


 やめるなと言うのは簡単だ。怖くないと言うのも、お前ならできると言うのも。

 どれも口の中まで来て、そこで止めた。

 千夏のつま先は、もう家の方を向いていた。


 だから、別のことを言った。


「にちよう、コートくる?」


 千夏が顔を上げた。目が赤かった。


「……スクールの話、してるんだけど」


「コートのはなし、してる」


 千夏はしばらく俺の顔を見ていた。それから、また下を向いた。


「……いく」


 スクールをやめるとは言った。テニスをやめるとは、もう言わなかった。


 その夜、布団の中で計画を立てた。


 千夏は俺の遅いボールなら打てる。あの男子の全力の球は打てない。

 その間にはたくさんの速さがある。


 一気に速くすれば千夏は下がる。下がったことを本人が覚えてしまう。

 覚えてしまえば、次はもっと早く下がる。

 だったら本人が気づかないくらい少しずつ、日曜のコートで前の週よりボール一個分だけ速くすればいい。


 人間は毎日少しずつ伸びる背丈に気づかない。柱の傷を見て初めて伸びたと知る。

 柱の傷を、見せなければいいのだ。


 問題は、ボール一個分の違いを狙って打ち分けられるかどうかだ。

 七歳の俺の身体で、それができるか。


 STATUSを開いた。

 コントロールの欄は、公園の壁と千夏への球出しのおかげでこの一年でずいぶん伸びている。


 ……できる。千夏へのボールだけは一年半、遅く遅くと調整してきた。それを逆に回せばいい。

 狙った速さを打ち分けるのだから、ついでにコントロールの経験点も入る。


 一九九二年の二月。日曜日の本家のコートは、霜が溶けた後で少し湿っていた。


 日曜のコートは、すっかり習慣になっていた。

 朝、母親の運転する車に俺と美咲と、途中で拾った千夏が乗る。

 本家に着くと祖母が縁側に座布団を並べて待っている。


 昼にはおにぎりと、やはり熱い麦茶。


 祖父はときどきコートの横に椅子を出して見物する。

 見物しながら「もっと強く打て!」と言い、千夏が下がると「強く打つな!」と言う。


 どちらなのか、本人にも分かっていないらしい。


 土曜のスクールも、千夏は結局やめなかった。

 年が明けて最初の土曜日には、何も言わずにジュニアクラスの列に並んでいた。

 打ち合いの組み合わせを決めるときには一人でコーチのところへ歩いていって、何か話していた。


 その日から千夏の相手があの三年生の男子になることはなかった。


 やめるのでも我慢するのでもなく、条件を変える。七歳にしてはずいぶん交渉がうまい。


 計画を始めて九週目だった。


 千夏はネットの向こうで俺のボールを打ち返していた。

 六回続いた。七回。切れた。計画を始める前の俺のボールと比べれば、ずいぶん速くなっている。

 九個分、速い。


 千夏は気づいていない。


 ……はずだった。


「おにいちゃん」


 ネットの横でボールかごを抱えていた美咲が言った。

 もうすぐ五歳のボール拾い係は、最近ボールを拾うだけでは飽き足らずにコートの横に座って試合を「見る」ようになっていた。


「おにいちゃん、まいしゅう、ちょっとずつ、はやくしてるよね」


 コートが静まり返った。


「ちなちゃんのとき、だけ。まいしゅう、ちょっとずつ」


 美咲は無邪気に首をかしげた。


「なんで?」


 なんで気づいた。


 千夏がラケットを下ろして、ゆっくりとこちらを見た。目が据わっていた。


「……はやく、したの?」


 四歳児の観察眼を甘く見ていた。

 打つ側でも受ける側でもなく、毎週、横から見ていたのだ。


 ボール拾い係は、いつの間にか審判の目を持っていた。


「はやくしたでしょ!」


 千夏の声がコートに響いた。


 嘘をつくのは簡単だった。してない、たまたま、美咲の気のせい。

 でも、ここで嘘をついたら千夏は二度と俺のボールを信じない。


「した」


 千夏の顔が真っ赤になった。


「なんで!」


「なんでって」


「なんで、だまってたの!」


 答えられなかった。

 千夏はラケットを握りしめたまま肩で息をしていた。


 美咲は自分が何か大変なことを言ってしまったらしいと察して、ボールかごを抱えたまま、そろそろと祖母のいる縁側の方へ撤退していった。


 長い沈黙があった。


 千夏は足もとに転がっていたボールを拾って、しばらく手の中で回していた。

 握って、離して、また握った。九週間分、自分が打ち返してきたボールと同じボールだ。

 やがて、それを俺の方へ投げてよこして、ラケットを構え直した。


「……もう一回」


 俺は黙って千夏を見た。


「今の速さで。もう一回」


 今の速さ。騙されて慣らされた、九週間分の速さ。


「……うん」


 ボールを出した。今の速さで。


 千夏は下がらなかった。


 三月の日曜日の夕方、フェンスの外に人が立っていた。


 紺のジャンパーに右膝の黒いサポーター。藤代圭だった。


 ツアーはまだ続いている季節のはずだ。

 後で千夏の母親から聞いたところでは、膝の治療のために一時帰国していたらしい。


 圭はフェンスの外からコートの中を見ていた。千夏は気づいていない。

 ネットの向こうで俺のボールを打ち返すのに夢中になっている。


 圭は何も言わなかった。表情はあの日の公園と同じで、ほとんど動かない。

 ただ、目の高さが娘の顔ではなく足もとにあった。

 俺のボールが来るたびに、千夏の靴がどちらへ動くか。五球、十球。千夏のかかとは一度も後ろへ下がらなかった。


 千夏のボールがネットにかかって、千夏が「もう一回!」と叫んだ。


 圭はそこでフェンスから離れた。帰っていく右足の運びが、ほんのわずかに遅れていた。


 俺は千夏に、父親が来ていたことを言わなかった。あの人が言わないことを選んだのだ。俺が言うことではない。


 ただ、引っかかった。

 俺には肘と言い、コートにはハードと言った人が、娘には声もかけずに足もとだけを見て帰っていった。


 娘には、一つも言わないのか。

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