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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
少年期・環境形成

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第33話 ハードにしろ

 六月の終わり、絵はがきが届いた。


 宛名は丹羽和人様。差出人の欄には几帳面な字で藤代圭とあった。


 正月に「藤代さんに聞いてみるか」と言い出した父親は、松の内が明けた週に公園で千夏の母親に頼んだ。

 あの人はもう、オーストラリアへ発ったあとだった。


「コートの種類? いいわよ、手紙に書いとく。あの人、筆まめだから」


 千夏の母親はからからと笑っていた。

 筆まめ、という言葉と、あの無口な男が、どうしても結びつかなかった。


 それから、半年。

 千夏の母親の手紙は遠征先を三つ追いかけて、やっと本人に届いたらしい。


 夕飯のあと、父親が茶の間で絵はがきを読み上げた。


「えー……」


 裏返す。表に戻す。もう一度、裏返す。


「ハードにしろ。世界はハードだ。……これだけ」


 これだけだった。


 筆まめ、の意味が分かった。届いた手紙には必ず返すが、一通に一行しか書かない人なのだ。


 母親がはがきを受け取って写真の面をしげしげと眺めた。


「これ、ロンドンからですよ。ほら、時計台」


 消印はロンドン、六月の半ば。芝の季節の真っ最中だ。


「芝の国から、芝はやめろって言ってきたんですねえ」


 母親はおかしそうに笑った。


 俺は父親の手からはがきをもらった。

 六歳の子どもが外国の絵はがきを珍しがるのは、不自然ではない。


 ハードにしろ。世界はハードだ。


 四大大会のうち、芝は一つ、土も一つ。残りの二つと、ほかの大会の多くはハードだ。

 十年後の俺が一番多く立つのは、ハードのコートだろう。


 あの人が言うのは、いつも一つだけだ。


「……一行でも、字がきれいだなあ」


 父親は、はがきを返してもらうと大事そうに背広の内ポケットにしまった。


 サインの代わりらしい。


 芝の話はそのはがきで片づいた。

 祖父ははがきを三度読み、芝刈りの見積もりを一度だけ見て「世界がハードなら、しょうがねえ」と言った。


 八月、夏休み。本家の隣の空き地に重機が入った。


 祖父の土地に祖父の会社が、悠蔵の金でコートを作る。

 原価でいいですよね、と悠蔵が言うと祖父は「当たり前だ」と怒鳴り、原価より安い見積もりを出させようとして上の伯父に止められた。


 祖父は毎朝空き地に来た。作業着を着てヘルメットをかぶり、腕を組んで現場の端に立つ。

 社長だというのにどう見ても現場の親方だった。


「もっと平らにしろ! 孫がつまずいたらどうする!」


 現場の人たちは「はい、はい」と返事をしながら、たぶん最初から平らにするつもりで平らにしていた。


 八月の半ば、祖父がトラックの荷台から大きな板を下ろさせた。

 看板だった。白い板に黒い太い字で丹羽建設とある。


「入口に立てる。ここは丹羽建設が作ったコートだと、世間に」


 祖母が日傘の下から言った。


「孫のコートに、会社の名前ですか」


 祖父が止まった。


「広告じゃねえ。記念だ」


「孫のコートに、会社の名前ですか」


 祖父はしばらく看板を睨んでいたが、やがて若い作業員に向かってあごをしゃくった。

 看板は荷台に戻り、その日のうちに本家の物置へ入った。


 遠くで悠蔵が縁側から百円玉を弾いていた。


「……昼、そば」


 看板の行方には何の興味もないらしかった。


 十月の日曜日、コートができた。


 青緑色の、硬い床。白いラインが目にしみるほどまっすぐに引かれている。

 ネットが張られ、フェンスが四方を囲み、空き地だった場所にテニスコートが一面できあがっていた。


 祖父が真ん中に立って両手を広げた。


「どうだ!」


 どうだと言われても、祖父が作ったのではない。作ったのは現場の人たちで、払ったのは悠蔵だ。

 祖父は毎朝平らにしろと怒鳴っていただけである。


 でも、祖父がいなければ、この土地は今も空き地だった。


「ありがとう」


 俺が言うと、祖父はものすごく満足そうにうなずいた。


 悠蔵はフェンスの外に立って、見積もりの数字と照らし合わせる目でコートを眺めていた。


 俺はフェンス越しに声をかけた。


「おじさん、うつ?」


 悠蔵はちょっと眉を上げた。


「僕が?」


「うん」


「で、いくら損するの?」


 テニスをすると何を損するのだろう。


「……たいりょくとか」


「じゃあ、やめとく」


 悠蔵はフェンスにもたれ、コートの真ん中で両手を広げたままの祖父を見て小さく笑った。


「親父、あれ、自分で作った顔だねえ」


「うん」


「まあ、いいんじゃない。値下がりした土地が、値下がりしないものになったんだから」


 値下がりしないもの。悠蔵はそれ以上続けなかった。

 ポケットの中で百円玉を指で転がす音がした。


 千夏も来ていた。母親に連れられてフェンスの入口に立ちコートを見回している。


「……ひろい」


 公園の壁の前に比べれば、どこだって広い。


 俺はネットの向こう側へ回り、千夏はこちら側に立った。

 下からふわりと、いつもの遅いボールを出す。ボールがコートに落ちて跳ねた。


 ――跳ね方が、違った。


 公園の土より高く、スクールの砂入り人工芝よりも速く、まっすぐ跳ねる。


 千夏は一瞬目を見開いたが、下がらなかった。振った。

 ぽこん、と音がして、ボールはネットを越えて俺の方へ飛んできた。


 視界に表示が流れた。



 コート適性 ハード +1



 砂入り人工芝では一度も動かなかった欄が、初めて動いた。


 ボールを返すと千夏がまた打った。


「みさきが、ひろう!」


 美咲がネットの横からコートに飛び込んできた。

 四歳のボール拾い係は、この一年半ですっかり本職になっていた。

 ボールがどこへ飛んでも誰よりも先に走っていき、拾ったボールを両手で抱えて得意げに持ってくる。


 今日は返してくれた。成長している。


 夕方になってフェンスの影がコートの上に長く伸びていた。


 俺と千夏はネットを挟んでずっと打ち合っていた。一本目は二回で切れた。

 次は三回、その次はまた二回。そして四回続いた。


 五球目。


 俺の打ったボールが、それまでより強くなった。

 わざとではない。続いたのが嬉しくて、つい力が入った。精神年齢を考えると、言い訳のしようがない。


 千夏が一歩下がった。


 ボールは千夏の横を抜けて後ろのフェンスに当たった。


 千夏は唇を噛んでいた。

 ボールを拾いに行こうとした美咲を手で止めて、自分でフェンスまで歩いていき、ボールを拾って戻ってきた。

 そのボールをネット越しに放ってよこした。


「……はやく、だして」


 俺はうなずいて、また遅いボールを出した。


 今の五球目だって、スクールのコーチの球出しよりずっと遅い。

 千夏が打ち返せるのは、まだ俺の本当に遅いボールだけだ。


 コートはできた。十回は、まだ遠い。

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