第32話 一年生
「なんでいるの」
隣の席で、千夏が目をまんまるにしていた。
一九九一年四月、柏市立あさひ台小学校の入学式の日。一年二組の、窓際の列の前から三番目が俺の席だった。
「こっちのせりふ」
同じ町内、公園の向こう側に住んでいるのだ。
同じ学区なのは当たり前で、同じクラスになる確率も低くはない。
隣の席になる確率は、それなりに低い。
千夏はランドセルの肩ベルトを握りしめて俺を睨んでいた。
睨んでいるが少しだけほっとした顔にも見えた。
俺のランドセルも背負うと背中より大きかった。母親が選んだ黒で祖父が買った。
祖母が「一つだけです」と念を押していたので、祖父は三つ買おうとしたのだと思う。
教室の後ろの保護者の列では母親同士が手を振り合っていた。
千夏の母親は声が大きいので、手を振るだけでは済まずに「よろしくねー」と言ってしまい、担任の先生にちらりと見られていた。
入学式の間じゅう千夏は何度も横目で俺を見ていた。
校長先生の話が長かった。前世の入学式も、たぶん長かったのだろう。
四月の終わりに初めてのテストがあった。ひらがなの読み書きと、十までの数だ。
全部分かる。問題は何点を取るかだった。
幼稚園で学んだとおり、隠しすぎるとかえって目立つ。だから一問だけ間違えることにした。
5と書いてから消して、6と書き直す。消した跡がうっすら残るように。
少し迷って一問間違えた、普通の一年生の出来上がりだ。完璧な計算だった。
一週間後、返ってきたテストは九十点。予定どおりだ。
ただ、間違えた問題の横に、赤いペンで花丸と、先生の字で一言がついていた。
「よく かんがえたね」
……は?
担任の先生が教室の前で俺のテストを持ち上げていた。
「丹羽くんは、一回、正しい答えを書いたのに、もう一回よく考えて、書き直したんですね。間違えちゃったけど、よく考えるのは、とっても大事なことです」
クラス中の視線が俺に集まった。
隣の席で、千夏が自分のテストを机の上に広げて、これ見よがしに指でとんとんと叩いていた。
百点だった。
「あたし、百点」
「……うん」
「よくかんがえなくても、百点」
目立たないために一問間違えたら、間違えた一問で目立った。
この国の教育は、俺の計算の一枚上をいく。
五月の土曜日、テニススクールに入った。
言い出したのは母親だった。
「琢真、毎日公園で壁ばっかりでしょう。ちゃんとコーチの先生に習ってみたら、どうですか」
駅から少し離れたところにある、柏グリーンテニススクール。
屋外のコートが四面あって、子ども向けのジュニアクラスが土曜の午後にある。
入会の申込書を書きながら母親は懐かしそうにコートを眺めていた。
「ママも昔、大学でやってたんですよ」
知っている。ちょっとだけで、上手じゃなかった。本人がそう言っていた。
申込書を受付に出したところで後ろから声がした。
「あたしも」
千夏だった。千夏の母親の手を引っ張っていた。
「あたしも、やる」
千夏の母親は驚いた顔をして、それから笑った。
「あら。お父さんに言ったら、びっくりするわよ」
千夏は返事をしなかった。
ジュニアクラスは一年生から四年生までの十人ほどだった。
最初は球出しの練習で、コーチがネットの向こうからボールを出し、順番に打っていく。
二十代くらいの、よく日に焼けたコーチだった。声が大きく、球出しのテンポが速い。
「はい次! はい次!」
俺の番が来た。出されたボールは、公園の壁から返ってくるボールよりずっと速かった。
一球目はネットにかかり、次はフェンスまで飛んで、三球目でようやくコートに入った。
「おっ、いいね! はい次!」
千夏の番が来た。コーチがボールを出した。
千夏は一歩下がった。
ボールは千夏の前でバウンドして横を抜けていった。
「ほら、もっと前! 前に出て!」
次のボールにも千夏は動かなかった。
ラケットを胸の前で握りしめたまま固まっていて、ボールがまた横を抜けていく。
「前! 前だよ!」
コーチの声が大きくなるほど、千夏は動かなくなった。
三球目も四球目も、千夏の横を抜けていった。
「……はい、次の子!」
列の後ろに戻ってくるとき、千夏は俺の横で顔を伏せていた。
レッスンが終わって、コートの外で待っていた母親たちのところへ戻った。
「どうだった?」
千夏の母親が明るく聞いた。千夏はラケットのケースを抱えたまま間を置いた。
「……たのしかった」
「そう! よかったわねえ」
千夏の母親は娘の頭をくしゃくしゃと撫でた。
撫でられながら、千夏はフェンスの向こうのコートを見ていた。
コーチが次のクラスのためにかごいっぱいのボールを運んでいる。
楽しかった顔ではない。かといって、やめると言い出す顔でもなかった。
公園では、俺の遅いボールなら何十球も打ち返せるようになっていた。
あれは俺のボールだから平気なのであって、コーチの球出しは別物らしい。
その夜、布団の中で【STATUS】を開いた。
■基礎能力▽
パワー G 12 / 13▽
テクニック G 14 / 15▽
コントロール G 13 / 14▽
スピード G 15 / 15▽
スタミナ G 14 / 15▽
レスポンス G 13 / 14▽
二歳のころの二倍以上だ。一番伸びたのはラケットを手に入れてからのテクニック。
それでも全部G。区切りがどこにあるのかは、まだ分からない。
▽を押して次の見出しを開いた。
■ショット▽
フォアハンド G 4 / 5▽
バックハンド G 2 / 3▽
サーブ G 1 / 1▽
ボレー G 1 / 1▽
スマッシュ G 1 / 1▽
■球種▽
フラット G 3 / 3▽
スピン G 2 / 2▽
スライス G 1 / 1▽
キック G 1 / 1▽
フォアハンドがやっと動き始め、バックハンドはその半分。上から打つのもネットに詰めるのもまだやっていない。
キックの欄はサーブを覚えるまで眠ったままだろう。
その下。
■コート適性▽
グラス G 1 / 1▽
クレー G 1 / 1▽
ハード G 1 / 1▽
公園の土も、スクールの砂入り人工芝も、どの適性にも数えられないらしい。
表示を閉じて天井を見た。
今日のスクールではレスポンスの経験点がいつもより多く入っていた。
コーチの球出しは速いうえに毎回違う場所へ来る。壁よりも千夏よりも、ずっと忙しい。
他人のボールは経験点になる。同じボールが、千夏には怖いものになる。
列の後ろに戻ってきた千夏の伏せた顔を思い出すと、素直には喜べない。
スクールのコーチは球を出すだけで、打ち合いの相手はしてくれない。クラスの子どもとでは三球と続かない。
こちらが球の速さを決められる相手は、今のところ公園の壁の前にしかいない。
三十歳まで、あと二十三年。
この伸び方のままでは、間に合わない。
伸び方を変えるなら、受ける球を変えるしかない。
来週から、球出しの列には一番前に並ぶ。
千夏はたぶん一番後ろに並ぶ。その差をどうするかは、まだ決めていない。




