第31話 空き地の値段
「おめでとう、ちび」
隣に座ると顔に載った新聞の下から声がした。
一九九一年の元日、本家の縁側には例年どおり悠蔵が寝転んでいた。寝ているように見えて、新聞の端から目が出ている。
「おめでとう」
悠蔵は身体を起こして新聞を膝の上に置いた。経済面だった。
株価は下がり続けていて、紙面の見出しは正月だというのに暗い。
悠蔵はいつものように聞いた。
「で、今年は何がいい?」
六歳の正月だ。この質問を聞くのは、もう何度目になるだろう。
俺は庭の向こうを指さした。塀の向こうの、畑と空き地。
「コート。あそこ」
悠蔵は俺の指の先を見て、それからちらりと座敷の方を振り返った。
座敷では祖父が上座に座って年始の客と大きな声で笑っている。
悠蔵は湯のみを手に取った。
「親父に言える?」
息子が言えば父親の失敗を指さすことになる。言えるのは孫だけだ。
「いえる」
「ふうん。じゃあ、任せた」
悠蔵は麦茶をすすった。それから湯のみを置いて、ついでのように言った。
「で、そっちは?」
そっち。コートではない方だ。
あの暮れに売った金は、まだ悠蔵の口座で眠っている。
日本の株も土地も、しばらくだめだ。
だが海の向こうでは、パソコンの長い坂道が始まる。どの会社がいつ上がったかまでは覚えていないが、坂の向きだけは知っている。
坂の終わりは二〇〇〇年のあたり。まだ十年近く先だ。
「アメリカ」
悠蔵が眉を上げた。
「パソコン」
悠蔵から見れば、日本の株を全部売れと言った甥っ子が、今度はアメリカのパソコンと言っている。
悠蔵はしばらく黙っていたが、やがて胸ポケットから小さな鉛筆を出して新聞の余白に何か書きつけた。
「……へえ」
理由は、聞かなかった。
夕方になると座敷は酒の席になった。
伯父の建が年始の客を送り出し、いとこたちはテレビの前で正月の特番を見ている。
父親は祖父に酒を注がれてもう顔が赤い。祖父は上座で上機嫌だった。
さっき美咲が祖父からお年玉をもらった。
三歳七か月の美咲は、ぽち袋を両手で受け取って中をのぞき、それから祖父の顔を見上げて言った。
「ボール、かえる?」
祖父は目を丸くした。
「ボール?」
「おにいちゃんの、ボール。みさき、かかりだから」
ボール拾い係は、ボールを買う係も兼任するつもりらしい。
祖父は腹を抱えて笑い、笑いながら財布からもう一枚出そうとして祖母に手首をつかまれていた。
「あなた。一人一枚」
「ボール代だ」
「一人一枚です」
祖母はこの家で唯一、祖父の「加減を知らない」を止められる人だ。
祖父は渋々財布をしまった。その祖父が今は酒で機嫌よく笑っている。
今しかない。
俺は祖父の膝の方へ歩いていった。六歳の身体はもう祖父に掲げられるほど軽くはない。
けれど膝に座るくらいはまだ許される。
「おう、琢真」
祖父は俺を膝に乗せた。酒と、煙草と、ポマードのにおいがした。
俺は縁側の向こうを指さした。庭と、塀と、その向こうの空き地。
五年前の正月、この人は一歳半の俺を高く掲げて庭の向こうを指さした。
――あそこまで全部だ。
この人は自分が言った言葉に弱い。言ったことを、なかったことにできない人だ。
「あそこまで、ぜんぶ、ぼくの?」
祖父は笑いかけた。大きな口を開けて、いつものように豪快に笑おうとして――途中で止まった。
俺の指の先に何があるかに気づいたのだ。一九八九年の暮れに、この人が買った土地。
駅前の話が止まってから、値を聞きに来る者もいない土地だ。
祖父の顔から、笑いが引いていった。
「あそこは、なあ……」
珍しく歯切れが悪い。座敷の空気が変わった。
父親が酒を注ぐ手を止め、客の見送りから戻ってきた伯父が、そこで立ち止まった。
悠蔵だけが、縁側で新聞をめくっていた。
「あそこは、まだ、何を建てるか決めてねえんだ。今は、ほれ、景気が」
そこで台所の方から声がした。
「あなた」
祖母だった。前掛けで手を拭きながら座敷の入口に立っていた。
「言いましたよね。この子を抱っこして、あそこまで全部だって」
祖父の口が閉じた。
「畑の向こうまで指さしてましたよ。あそこは、その手前です」
祖母はそれだけ言って台所に戻っていった。
座敷が静まり返った。祖父はしばらく腕を組んで天井を睨んでいて、俺は膝の上で黙って待った。
それから、祖父は膝を打った。ぱん、と大きな音がした。
「孫が使うなら、損じゃねえ!」
座敷がどっと沸いた。何がおかしいのか、いとこたちまで笑っていた。
父親は一人だけ拍手をしていた。
語るに落ちている。
縁側で悠蔵が新聞をめくる音がした。新聞の陰で喉を鳴らすような音が混じっていた。
「で、琢真。あそこで何をするんだ」
祖父が俺の頭に手を置いた。
「テニス」
「テニスか!」
祖父は父親の方にあごをしゃくった。
「和人のとこの柱に、新聞の切り抜きが貼ってあるだろう。外国の、十七の坊主が勝ったやつ」
父親が新聞から切り抜いて居間の柱に画鋲で留めた記事だ。
芝のコートで優勝した、十七歳の少年。
いつだったか丹羽家に来たとき、祖父はあれをしげしげと眺めていた。
「あれだ。テレビのやつにしろ。芝だ」
芝。
「緑のやつだ。外国のは、みんな芝なんだろう。あそこを全部、芝にしろ」
外国のはみんな芝ではない。四大大会のうち、芝は一つだけだ。
だが、それを六歳の口から説明するわけにはいかない。
縁側から悠蔵がのそりと入ってきて、手酌で自分の杯に酒を注いだ。
「で、いくらかかるの?」
祖父が黙った。
「芝って、毎日刈るんでしょ。水もやるんでしょ。誰がやるの。親父?」
祖父はさらに黙った。
「まあ、いいんじゃない。芝でも」
悠蔵は杯を空けた。
「芝刈りの見積もりも、出しとこうか。毎年の分」
祖父は腕を組んでまた天井を睨んだ。
コートを作ることは決まった。
けれど、どんなコートにするかは、祖父も悠蔵も、本当のところは俺も知らない。
そのとき、父親が赤い顔のまま手を挙げた。
「あの、藤代さんに、聞いてみるか」
座敷の全員が父親を見た。
「藤代圭。プロの。うちの琢真と、公園で、ほら、娘さんが」
父親は少し得意そうだった。公園でサインをもらい損ねた人と、息子を通じて縁がある。
「プロに聞くのが、一番だろう」
たまにはこの人も正しいことを言う。
俺は祖父の膝の上でうなずいた。
――藤代圭の住所を、座敷の誰も知らなかった。




