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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
少年期・環境形成

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第30話 一つだけ

 十一月の終わり、フェンスの外に男が立っていた。


 公園の壁の横には低い金網のフェンスがあって、その向こうは歩道だ。

 男は歩道の側に立って腕を組んでいた。背が高い。

 紺色のジャンパーを着て右の膝に黒いサポーターを巻いている。


 いつから立っていたのかは分からない。気づいたときには、もうそこにいた。


 千夏に球を投げながら横目で見た。男は動かない。

 見ているのはボールではなく、俺の手元と足もとだ。

 打つ人間の身体を見る目だった。


 千夏が俺の投げたボールを空振りして、転がったボールを追いかけて顔を上げた。


 そして、固まった。


「……おとうさん」


 男は娘の声に小さくうなずいただけだった。手を振るでもなく、近づくでもなく。


 千夏の父親。プロの、テニス選手。

 ツアーは晩秋でひと区切りつくから、その間だけ家に帰ってくるのだろう。


 千夏はラケットを持ったままどうしていいか分からない顔をしていた。

 父親の前で打っていいのか、打たない方がいいのか。


 俺も迷った。この人の前でどう打つか。隠すか。

 六歳の子どもらしく、下手に打つか。


 ……無理だ。


 この人はプロだ。下手のふりをした打球と本当に下手な打球の違いくらい、一目で分かる。

 嘘の打ち方をすれば嘘だとばれるし、ばれた方がずっと目立つ。


 だったら、いつもどおりに打つ。


 俺は千夏からラケットを受け取って壁の前に立った。

 いつもどおり、六歳の身体で、今できる一番いい打ち方で。


 二十球ほど打ったところで男がフェンスを回ってきた。


 公園の入口から入ってきて壁の横まで歩いてくる。

 膝をかばっているのか右足の運びがほんのわずかに遅い。

 男は俺の横で立ち止まった。


 見上げると、男は俺を見下ろしていた。表情が、ほとんどない。


「一つだけ言う」


 低い声だった。男は身をかがめて俺の右肘に人差し指を当て、とん、と軽く押した。


「……肘だ」


 それだけだった。どう直せともなぜだとも言わない。


 肘。


 俺は頭の中の一覧を開いた。

 STATUSとは別の、この半年、壁に向かいながら自分で作ってきた一覧だ。


 足がボールに対して近すぎる。肩の回りが浅い。握りが打つたびに少しずつずれる。

 打点が身体に近い。肘が身体から離れすぎている。


 全部、見えていた。中継の映像と今の自分を比べれば、欠点はいくらでも挙げられる。

 見えていなかったのは、どこから直すか、だった。


 この半年、足を直しては肩が崩れ、肩を直しては握りがずれ、を繰り返していた。半年分のもぐら叩きだ。


 言われたとおり肘だけを意識して打った。

 身体から離れていた肘を少し引きつけて、それ以外は何も変えない。


 ――肩が、ついてきた。


 肘を寄せた分、肩が勝手に回った。肩が回った分、打点が前に出た。

 打点が前に出た分、握りのずれが気にならなくなった。


 一つ直したら、三つ直った。


 戻ってきたボールを打ち返すのも忘れて、足もとを転がっていくのを呆然と見送った。

 ……そういうことか。


 俺が知っているのは形だけだ。

 中継で何度も見てきた、完成した選手の完成した形。


 この人は順番を知っている。どこから崩せば、どこが勝手についてくるのか。

 子どもの身体が、どういう順番であの形にたどり着くのか。


 前世の知識には、それがない。どれだけ映像を見ても、順番は映らない。


 男はもう俺を見ていなかった。壁の、ボールの跡を眺めていた。


 千夏が男の袖を引いた。


「あたしには?」


 男は娘を見下ろした。千夏は父親の袖をつかんだまま見上げている。

 さっきまで俺のラケットで空振りしていた、自分の番だと言いたげに。


「たくまには言ったでしょ。あたしには?」


 男は娘から目をそらしてまた壁の方を見た。


 千夏の手が袖から離れた。


 しばらく黙って父親の横顔を見ていたが、やがてくるりと振り返って俺の手からラケットをもぎ取った。

 と思ったら、もぎ取ったラケットを俺の胸に押しつけてきた。


「……いい」


 頬がふくらんでいた。


「たくまに聞くし」


 男はそれでも黙っていた。

 俺に聞かれても困る。俺も今日一つ教わったばかりだ。


 この人は娘に何も教えない。千夏がそう言っていた。

 理由は分からない。ただ、教えないと決めている人の顔だった。


 日が暮れかけたころ男が俺の方に手を出した。


「貸してくれ」


 ラケットだった。子ども用の青い短いラケットは、大人の手の中ではおもちゃのように見える。

 男はそれを軽く握り、グリップの太さを確かめるように手の中で一度回した。

 打つ前に一度だけ、俺の袖の横に立つ娘の方へ目をやった。それからボールを一つ拾って壁の前に立った。


 構えた、と思った瞬間には、もう振り終わっていた。


 ばん。


 音が違った。俺の打球はぽん、だ。千夏の打球はぽこん、だ。

 これはばん、だった。四歳の千夏が聞いた音だ。


 ボールは壁に当たって俺たちの頭の上を越え、公園の真ん中まで飛んでいった。


 目で追えなかった。

 正確には、追えたのは壁に当たった瞬間の音と、公園の真ん中で跳ねたボールだけだった。

 その間が抜けていた。


 子ども用のラケットでこれだ。


 袖を引っ張られた。千夏が俺の袖を両手でぎゅっとつかんでいた。

 顔は真っ白だった。


 俺は袖をつかまれたまま動かなかった。


 男はラケットを俺に返した。


「悪くないラケットだ」


 それだけ言った。娘の方は、見なかった。


 そのとき、公園の入口から聞き慣れた声がした。


「琢真ー。迎えに来たぞー」


 父親だった。外回りの途中に寄ったらしく、背広のまま鞄を提げてこちらへ歩いてくる。

 そして男の顔を見て足を止めた。


「……藤代《ふじしろ》、圭《けい》?」


 男が父親を見た。


「全日本の? 藤代圭さん、ですよね?」


「そうです」


 父親の顔がぱっと明るくなった。鞄を置き、背広の内ポケットから手帳を出す。

 ボールペンを探して胸ポケットを叩いた。


 そこで我に返ったらしく手帳を持ったまま固まった。

 サインをもらおうとしている銀行員が、娘の迎えに来たプロと公園で向き合っている。


「いや、あの」


 父親は手帳を内ポケットに戻そうとしてネクタイに引っかけた。


「ネクタイが、ですね」


 何の説明にもなっていない。


「……ネクタイが?」


「いえ。何でもないです。息子が、いつもお嬢さんに」


 藤代圭はほんの少し口の端を上げた。笑ったのかどうか判断に迷うくらいの角度だった。


「こちらこそ」


 帰り道、父親はずっと一人で何かつぶやいていた。


「藤代圭……全日本、二回取ってる人だぞ……膝、悪いって新聞に……同い年なんだよな、確か……」


 俺は父親に手を引かれながら青いラケットを抱えていた。

 グリップに、まだあの人の手の温度が残っている気がした。


 一つだけ言う。……肘だ。


 この人をこちら側に引き込む。

 ただ、六歳の子どもには住所も電話番号もない。あるのは公園の壁と、ベンチに座る娘と、グリップに残ったあの人の手の温度だけだ。

 この人のオフは、そう長くない。

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