第29話 遅いボール
八月に入って蝉がうるさくなった。
千夏は相変わらず同じベンチの同じ端に座っていた。
夏休みに入ってからは夕方ではなく昼過ぎから来ている。
帽子をかぶって、水筒を首から下げて、壁とボールを見ている。
俺は打つのをやめてラケットを壁に立てかけ、ボールを一つ手に持った。
千夏が身構えたのが分かった。
俺はボールを投げなかった。しゃがんで地面に置き、手のひらでそっと押した。
ボールは乾いた地面の上をころころと転がっていった。
跳ねない。浮かない。ただ、地面を這うように千夏の足もとへ向かっていく。
転がるボールは、飛んでこない。自分に向かってはくるが、顔の高さには絶対に来ない。
ボールは千夏の靴の手前で止まった。
千夏は足を引かなかった。ボールを見下ろして、それから俺を見た。
「……なに」
「べつに」
千夏はしばらくボールを睨んでいたが、やがてゆっくりとベンチから身を乗り出して、指先でつまむように拾った。
拾ったボールをどうしていいか分からないらしく手の中で何度か転がしている。
それから、しゃがんで地面に置き、手のひらで押した。
ボールがころころと俺の方へ戻ってきた。途中で曲がって俺の右側に逸れる。
一歩横へ動いて拾い、また転がした。千夏が拾って、転がした。
それが日が傾くまで続いた。何十往復したのか途中から数えるのをやめた。
最後の方は、千夏はベンチから下りて地面に直接しゃがんでいた。
帽子のつばの下で唇がゆるんでいた。
本人に言えば「ゆるんでないし」と返ってくるに決まっているので、言わない。
ちなみに、この遊びでも経験点は入った。
転がるボールを追うからレスポンス、狙った場所へ転がすからコントロール。
壁と違って、相手は毎回違う場所へ返してくる。
狙って曲げているわけではない。単に、下手なのだ。
下手な相手は経験点の宝庫である。
お盆が過ぎたころ、転がすのをやめて投げることにした。
下から、ふわりと。高く上げずに、ゆっくり落ちてくる球を。
最初の一球で、千夏は一歩下がった。ボールは千夏の足もとで一度跳ねて転がっていった。
千夏はそれを追いかけて拾ってくると下から投げ返してきた。
とんでもない方向へ飛んでいったので、俺は走って拾った。
二球目は下がらなかった。
三球目、千夏は両手を前に出して胸の前で受け止めた。
「こわくないし」
聞いてもいないのに、千夏はそう言った。
ボールを胸に抱えたまま俺を睨んで。
俺は何も言わなかった。聞けば、この子は引っ込む。
次の球を投げ、千夏が受けた。
十球ほど続いたところで千夏がぽつりと言った。
「おとうさんの試合、見たの」
ボールを手の中で転がしながらこちらを見ずに。
「四さいのとき。とうきょうの、おっきいとこ」
投げる手を止めた。
「ばんって、音がしたの」
千夏はボールを見ていた。
「ボール、見えなかった。ばんって音がして、もう、むこうにいってた。おとうさんも、むこうの人も、ずっと、ばんって」
プロの試合と、客席の四歳の子ども。
目で追えない速さのものが、その音を立てて行ったり来たりしている。その片方が自分の父親だ。
「おとうさん、テニス、おしえてくれないもん」
千夏は唇をとがらせた。
「おしえてって言っても、だめって。なんでって言っても、だめって」
そう言ってボールを投げ返してきた。今度はちゃんと俺の方へ飛んできた。
受け止めながら、次の球をどれくらい遅くできるかを考えていた。
目で追える速さなら、いい。
八月の終わり、千夏の母親が迎えに来るなり言った。
「この子、昨日で六つになったのよ」
千夏は母親の後ろで少し胸を張った。一つ年上になった顔だ。
実際は俺より一か月若い。俺の方が七月に六歳になっている。
前世を足すと比べるのも馬鹿らしくなるが。
「ケーキ、いちごの。ろうそく、ぜんぶ一回で消した」
頼んでもいないのに報告してくれた。
その日、俺は壁の前で千夏に見せるために打った。うんと遅く。
ラケットはほとんど振らず、ボールを面に乗せてそっと押し出すだけだ。
壁に当たったボールは山なりにゆっくりと戻ってきて、それをまた、そっと押し出す。
千夏はベンチから下りて壁の近くまで来ていた。ボールの行き来を目で追っている。
追える。この速さなら、目で追える。そのことを千夏の身体に覚えさせたかった。
しばらく見ていた千夏が、腕を組んだ。
「へたくそ」
……は?
「ぜんぜん、ばんってならない。へたくそ」
反論しかけた。わざとだ。そっちのために、わざと遅く打っているのだ。
と、言うわけにはいかない。
俺は口を閉じた。
「……うん」
「へたくそ」
六歳の誕生日を迎えたばかりの女の子に、全力で手加減した結果、へたくそと三回言われた。
前世を含めて、これほど理不尽な評価を受けたことはない。
千夏の母親がベンチで声を上げて笑っていた。
九月に入った。
夕暮れが少しずつ早くなって、壁の影が夏の間よりも長く伸びるようになった。
その日も俺は遅いボールを打っていて、千夏は壁のすぐ横に立って見ていた。
ボールが戻ってきたところで打つのをやめて、ラケットを千夏の方へ差し出した。
「うつ?」
千夏はラケットを見て、俺を見て、それから壁を見た。長い間迷っていた。
受け取ろうとして手を引き、また手を出して。
「……たくまが、なげるの?」
「うん」
「ゆっくり?」
「ゆっくり」
千夏はラケットを受け取った。両手でグリップを握りしめている。
握り方は全然違うが、今はどうでもいい。
俺は数歩離れてボールを持った。下から、ふわりと。ちょうど千夏の腰の高さで跳ねるように。
ボールが弧を描いた。
千夏は目を閉じなかった。
振った。
ぽこん、と間の抜けた音がした。
ボールはラケットの面の真ん中から少し外れたところに当たってふらふらと飛んだ。
壁に当たって跳ね返り、転がって千夏の足もとへ戻ってきた。
千夏は動かなかった。自分の手の中の、青いラケットを見つめていた。
それから足もとのボールを見て、またラケットを見た。
「……もう一回」
小さな声だった。
俺はボールを拾ってまた下から投げた。視界の端に表示が流れる。
コントロール +1
相手ができた。へたくそで、怖がりで、口が悪い。ラリーにはまだほど遠い。
それでも――
「もう一回!」
今度は大きな声だった。




