第28話 ベンチの女の子
六月に入ると経験点の入りが悪くなった。
平日の夕方は幼稚園から帰ると公園の壁に向かう。それがこの二か月の日課だった。
最初の頃は一球打つたびに何かしらの経験点が入った。
テクニック。コントロール。ときどき、パワー。
それが減ってきた。
同じ高さに、同じ強さで、同じ場所へ。百球打っても最初の頃の十球分くらいしか入らない。
赤ん坊のころ、手足をばたつかせるだけでは早々に経験点が入らなくなったのと同じ理屈だ。
同じ動作の繰り返しには、飽きが来る。俺ではなく、STATUSの方に。
だから、変えた。壁の高いところを狙う。低いところを狙う。
右の端、左の端。ラケットを持つ手の側で打ち、反対側でも打つ。
フォアハンドと、バックハンド。呼び方は知っている。
バックハンドの方はまだ半分以上が空振りだ。
打ち方を変えるたびに、経験点の入りが少しだけ戻る。また減る。
また変える。壁は黙って返してくる。文句も言わないが、工夫もしてくれない。
梅雨の合間の、湿った夕方だった。コンクリートの壁がじっとりと濡れたような色をしていた。
ボールが植え込みに消えたので拾いに行き、ついでに公園の中を見回した。
ベンチに、女の子が座っていた。
同い年くらいで、肩の上で切りそろえた髪をしている。膝の上で両手を握っていた。
……また、いる。
昨日もいた。一昨日もいた。同じベンチの同じ端に座ってこちらを見ている。
ブランコにも砂場にも行かない。
見ているのはたぶん俺ではない。壁と、ボールだ。
六月の終わり、打ち損じたボールがベンチの方へ転がっていった。
フレームに当たった球だった。勢いはない。地面を二度跳ねて、あとは転がるだけの球だ。
女の子が跳ねた。
座ったまま両足を思い切りベンチの上へ引き上げ、膝を胸に抱えて身体ごと後ろへ引いている。
ボールはベンチの脚に当たって止まった。女の子の足があった場所の、ずっと手前で。
俺はラケットを持ったままベンチへ歩いていった。女の子は膝を抱えたまま、こちらを睨んだ。
睨んでいるのに、足は下ろさない。
ボールを拾った。
「みてたの?」
女の子はぷいと顔をそむけた。
「べつに、みてないし」
何日も続けて同じベンチに座ってボールを目で追っていた人間の台詞ではない。
だが、それを指摘するのは大人げない。
外見は子どもなので子どもらしい質問をすることにした。
「なまえ」
女の子はしばらく黙っていた。それから、顔をそむけたまま小さく言った。
「……ちなつ」
「たくま」
「きいてない」
聞いていないらしい。
俺は壁の前に戻った。
千夏は帰らなかった。足をそっとベンチから下ろして座り直した。
さっきよりベンチの端の方へ、ボールから遠い方へ寄って。
そして、また壁とボールを見ていた。
打ちながらさっきの動きを思い返した。
当たっても痛くない球だ。五歳の子どもなら足で止めるか、拾って投げ返してくる。
それを、あの子は全身で避けた。
同じ週の金曜日、夕方の公園の入口で母親同士が知り合った。
迎えに来た千夏の母親は、娘とは正反対の人だった。声が大きくてよく笑う。
「すみません、うちの子、いつもお宅の坊やのこと見に来ちゃって」
母親は美咲の手を引いたままにこにこと頭を下げた。
「いえいえ、うちの子こそ、毎日ボールをあっちこっちに」
「あら、お宅もテニス?」
お宅も。その一言に耳が引っかかった。
俺はボールを拾うふりをして入口の方へじりじり寄った。
「うちは主人が。選手なんです、テニスの」
「まあ」
「今は外国。一年の半分以上、いないのよ。この子なんて、お父さんの顔、忘れちゃうんじゃないかって」
千夏の母親はからからと笑った。千夏は母親のスカートの後ろで黙って靴の先を見ていた。
「選手って、プロの方ですか?」
「一応ね。日本じゃ、それなりなのよ。外国じゃ、それなりじゃないみたいだけど」
母親二人はそれから十分ほど幼稚園の話と夕飯の献立の話をしていた。
その間に美咲が母親の手を離れた。
黄色いボールを両手で掲げて千夏の方へとことこ歩いていった。
「ボール!」
千夏は母親のスカートの後ろで一歩下がった。
三歳の子どもがボールを持って近づいてくるだけなのに。
美咲は首をかしげて、それからボールを自分の胸に抱え直した。
いらないなら、あげない、という顔だった。
俺は壁の前に戻りながら前世の記憶をひっくり返していた。
一九九〇年の、日本人男子のプロテニス選手。
一人だけ出てきた。前世のテレビで、引退したあとも誰より熱く人を励ましていた元選手だ。
だが、あの人ならこのころは世界の百位の内側にいたはずだ。外国じゃそれなりじゃない、とは家族も言わないだろう。
それ以外は、何も出てこない。知らないということは、世界の上の方にはいなかったということだろう。
それでもプロだ。遠征で一年の半分以上、家にいない。
その娘が、転がってくるだけのボールから逃げている。
なぜだ。
その夜の夕飯は、肉じゃがだった。
父親は珍しく早く帰ってきていた。
美咲はじゃがいもを箸で刺そうとして器ごと動かしている。
母親がご飯をよそいながら楽しそうに言った。
「あなた、琢真ね、公園の女の子のことをずっと見てるんですよ」
父親の箸が止まった。
「……もうか」
もう、とは何だ。
「ベンチの子です。可愛い子なんですよ。琢真ったら打ちながら、ちらちらそっちばっかり見て。もう、そういう年なんですねえ」
「そうか。……そうか」
父親は俺の方を見て妙に真面目な顔でうなずいた。
違う。見ていたのはあの子の足の引き方だ。ボールが転がってきたときの、身体の逃げ方だ。
……と、説明するわけにはいかない。
五歳の子どもが「足の引き方を観察していた」と言い出したら、平成の字を読んで以来の父親の疑いの目盛りがまた一つ進む。
それに比べれば、女の子を見ている五歳児の方がずっと健全だ。
俺は黙って味噌汁を飲んだ。
「ちなつちゃんっていうんですって。お父さん、テニスの選手なんですって」
「へえ。テニスの」
父親は首をかしげた。
何か思い出しかけたような顔をして、結局思い出さなかったらしい。
美咲がようやくじゃがいもを刺すのに成功して得意げに掲げた。
「みさき、とった!」
「えらいえらい」
母親の関心が美咲に移って、俺はほっとして肉じゃがの人参をつまんだ。
父親だけは食べ終わっても湯のみを両手で包んで何か考え込んでいた。
五歳の息子の初恋に、銀行員の顔で本気で備えている。
布団に入ってから、もう一度ベンチの女の子を思い浮かべた。
ボールから遠い方へ寄って座り直したくせに、帰らなかった背中。
怖いのに、見に来る。
ラリーの相手がいない、と昨日までの俺は思っていた。
候補は毎日、同じベンチに座っている。




