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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
少年期・環境形成

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第27話 テニスボールを打つ

 二週間後の日曜日、本家の縁側で悠蔵《ゆうぞう》が手帳を開いた。


「調べたよ」


 黒い革の手帳だった。ページの端に細かい数字がびっしり並んでいて、一つも崩れていない。

 経理の人間の字だ。


「作れる。土地がないだけ」


 土地がない。


 俺は塀の向こうを見た。畑と、空き地。去年の正月、祖父が「あそこも買う」と指さした場所だ。


 ある。すぐそこに、ある。


 俺の視線を追って悠蔵は小さく息を吐いた。


「あそこね」


 それから、声を一段落とした。座敷の方では祖父が誰かと電話で話している。


「あそこ、親父が去年の暮れに買ったやつ。駅前に大きい話が来るって言ってね。その話が、先月止まった」


 なるほど。一九八九年の暮れ、株が天井をつけたあの月だ。


「その話するとね、親父、機嫌が悪くなるんだよ」


 悠蔵は手帳を閉じた。


 祖父は損をしたとは言わない人だ。

 言わない代わりに、その土地の話題そのものをなかったことにする。


 買い手のつかない土地に孫のコートを作るのは、理屈の上では遊ばせておくよりずっといい。

 けれど、あの人に理屈で勝った人間を、俺はまだ見たことがない。

 祖母を除いて。


 ……今は動く時ではない。


 祖母が盆に湯のみを二つ載せて縁側に来た。

 一つは悠蔵の前に、もう一つ、小さい方を俺の前に置く。


「琢真ちゃんは、麦茶ね。熱いから、ふうふうして」


 四月でも、熱い麦茶。本家の麦茶は季節を問わず湯気を立てている。


 祖母は悠蔵の手元の手帳にちらりと目をやった。


「また数字?」


「仕事だよ」


「日曜日に?」


「日曜の数字は、趣味」


 祖母はため息をひとつついて座敷へ戻っていった。

 座敷ではまだ祖父の電話の声が続いている。


「で、コートはまだ」


 悠蔵は湯のみを空にすると立ち上がって伸びをした。


「代わりに、買い物行こうか」


 悠蔵も、今日は引くことにしたらしい。


 柏駅前のスポーツ用品店はゴムとフェルトのにおいがした。


 壁一面にラケットが掛かっている。

 木のものはもうほとんどなく、並んでいるのは黒や銀の細いフレームばかりだ。


「ジュニア用ってのがあるんだってさ」


 店員が奥から短いラケットを二本持ってきた。赤いのと、青いの。


 手渡された一本を両手で持ち上げた。


 軽い。


 母親の木のラケットは、畳から数センチしか浮かなかった。

 これは片手で持てるし、振れる。

 握っただけで手のひらの中にラケットの先まで収まっている感じがした。


 悠蔵は赤と青を見比べていたが、やがてポケットから百円玉を出した。


「表なら赤」


 親指で弾いて、手の甲で受け、もう片方の手でふさぐ。


 ……ラケットの色を、コインで決めている。


 俺の人生初のラケットだ。前世を含めても自分のラケットを持つのは初めてになる。

 それを、百円玉が決めている。


 まあ、いい。色で打球が変わるわけではない。


 この人はどうでもいいことはコインで決め、金のことだけは数字で決める。

 俺のラケットの色は、「どうでもいいこと」の方に入ったらしい。

 正しい分類だと思う。


「裏。青ね」


 悠蔵は青い方を店員に渡し、それからレジの横の棚を指さした。


「あと、ボールも。ボールがなきゃ、打てないでしょ」


 黄色い缶が一つ。財布を出しながら悠蔵は店員に聞いた。


「これ、いくつくらいの子が使うの」


「そうですね、小学校の低学年くらいからですかね。五歳だと、ちょっと早いかな」


「ふうん。早いって」


 悠蔵は俺を見下ろした。


「早いんだってさ」


 俺は黙ってラケットを握り直した。早いのは知っている。

 俺の人生は何もかもが早い。締め切りが決まっているのだから、仕方がない。


「まあ、いいんじゃない」


 悠蔵はそれ以上何も聞かずに会計を済ませた。


 店を出たところで悠蔵が缶のふたを開けてくれた。

 ぷしゅ、と空気の抜ける音がして、中からフェルトの新しいにおいが立ち上ってくる。


 前世でこの音を聞いたことがあったかどうかは覚えていない。

 聞いたとしても、テレビ中継の画面の端くらいだろう。


 それが今は、俺の手の中で鳴っている。

 缶一つで感慨にふける五歳児というのも、どうかと思うが。


 翌日の夕方、公園の壁の前に立った。


 二年前、母親が三十分粘って、二回だけボールを返した壁だ。

 コンクリートには昔の誰かのボールの跡がうっすらと残っている。


 母親は少し離れたベンチで美咲《みさき》を膝に乗せていた。

 来月で三歳になる美咲は、俺の手元の黄色いボールをじっと見ている。


 ボールを左手に持った。相手はいないので、自分で出す。

 落として跳ねたところを打つ。


 形は知っている。中継で何度も見た。横向きに立って、ラケットを後ろに引いて、前で当てる。


 ボールを落とした。跳ねた。振った。


 空振り。


 ボールは俺の足もとで二度、三度と小さく跳ねて転がっていった。


 ……形は知っている。身体がついてこないだけで。


 もう一度。落として、跳ねて、振る。


 かつん、と乾いた音がした。フレームだ。ボールは斜め上へ飛んで植え込みに消えた。


「ボール!」


 美咲が母親の膝から滑り降りて植え込みに突進していった。


 三球目はボールが跳ねるのを最後まで見た。

 頂点から落ち始めたところでラケットを前に出す。


 ぽん、と音がした。


 面に、当たった。ボールはまっすぐではなかったが、壁に当たって跳ね返ってきた。


 視界に表示が流れた。



 【MISSION】

 ・テニスボールを打つ 達成



 続けて二行。



 テクニック +5

 コントロール +3



 「ラケットを握る」のときと同じだ。小さなミッションには経験点のご褒美がついている。

 握るより打つ方が、使うものが一つ多いらしい。


 跳ね返ってきたボールは俺の横を抜けて公園の真ん中の方へ転がっていった。


「みさきの!」


 植え込みから戻ってきた美咲が今度はそちらへ走っていく。

 両手でボールを抱えて胸に押しつけた。返す気配がない。


「美咲、それはお兄ちゃんのですよ」


 母親が笑いながら追いかけて美咲の腕からボールを取り返した。


「じゃあ美咲は、ボール拾い係ですね」


「かかり!」


 母親はしばらく黙って俺の方を見ていた。


「琢真、今の、当たりましたね」


「うん」


「ママより上手かもしれませんねえ」


 そう言ってから唇をとがらせた。


「……ママも今度、あのラケットで打ってみましょうか」


 おっとりしているが、負けず嫌いな人だ。


 その日、俺は日が暮れるまで壁に向かってボールを打った。

 半分は空振りで、半分の半分はフレームで、残りのいくつかが壁に当たった。


 ボールは公園の四方八方へ飛んでいき、美咲はそのすべてを追いかけた。


 その夜、布団の中でミッション一覧を開いた。



 ■ミッション一覧▽

 ・ラリーを十回続ける▽

 ・試合に出場する▽

 ・公式戦で初勝利する▽



 一番上の一行が、また変わった。


 ラリーを十回続ける。打って、返されて、また打つ。


 壁は返してくれる。けれど壁との打ち合いをラリーとは呼ばないだろう。


 相手が要る。


 天井を見ながら候補を並べてみた。


 母親。やる気はあるが、手元にあるのは押し入れの木のラケット一本だ。


 父親。毎朝ネクタイと格闘して舌打ちをしている人だ。

 ボールと格闘する姿は、想像がつかない。


 美咲。もうすぐ三歳。ボールを抱えて、返さない。

 ちょうど隣の部屋から寝言が聞こえた。


「かかり……」


 ボール拾い係は夢の中でも仕事をしているらしい。返す係までは引き受けていない。


 悠蔵。たぶん、打つ前に「で、いくら損するの?」と聞いてくる。


 ……相手がいない。

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