第24話 天井
一九八九年、十二月。
最初の日曜日、悠蔵伯父がふらりとうちに来た。
手土産は駅前の和菓子屋の最中。
玄関で靴を脱ぎながら、伯父は「近くまで来たから」と言った。近くまで来る用事など、ないはずだった。
毎年この時期に一度だけ来る。年末の報告だと父親は思っている。
「兄貴、聞いた? 来年は四万だってさ」
居間で茶を出しながら父親が言った。
「支店長が、朝礼で言ってた。日経平均、来年は四万円を超えるって。証券会社の人も、みんなそう言ってる」
「へえ」
伯父は最中をかじりながら気のない返事をした。
「兄貴は、どう思う」
「さあねえ。上がるんじゃない? みんながそう言うなら」
父親は意外そうな顔をした。
俺は居間の隅で美咲と積み木をしていた。
五歳四か月。美咲は二歳半。
美咲は積み木を積むより、崩す方が好きだ。俺が三段積むと美咲が崩す。俺はまた三段積む。美咲がまた崩す。レスポンスの経験点が少しずつ入る。
積み木を積みながら耳だけは大人たちの方に向けていた。
来年は四万円。誰も天井だとは思っていない。
父親も、支店長も、証券会社の人も。テレビの中の評論家も。
この国で今一番正しい予測をしているのは、居間の隅で積み木を崩されている五歳児だ。
伯父が湯呑みを置いた。
俺は積み木を置いて立ち上がり、伯父の袖を引いた。
「おじさん。おにわ、いこう」
「うん?」
伯父は俺を見下ろした。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと、ちびと庭に出てくる」
十二月の庭は寒かった。
小さな庭だ。本家の庭とは比べものにならない。
物干し台と、母親の植えたパンジーの鉢と、父親が日曜大工で作った、少し傾いたベンチ。
伯父はそのベンチに座った。
俺は伯父の前に立った。
息が白い。
今年の正月から何度も頭の中で練習してきた言葉だ。
四歳の縁側で飲み込んだ言葉。
今なら、言える。
五歳の口に合わせて刻めば、この話は子どもの冗談で終わる。
今日だけは時間割を破ると決めていた。
「おじさん」
「うん」
「年が明ける前に、全部売って」
伯父は何も言わなかった。
白い息だけが伯父の口から漏れていた。
全部。
四年前の正月、お年玉分から始まった賭け。
建設。電話。そのまま。そのまま。
伯父の財布から出た金は、今どれくらいになっているのか。俺は知らない。
ただ、それが全部、崖の縁に立っていることだけは知っている。
伯父がポケットに手を入れた。
百円玉が出てきた。
伯父はそれを親指の上に乗せた。
いつもの、コインを弾く構え。
昼飯を決めるときの。帰り道を決めるときの。どうでもいいことを決めるときの。
俺は息を止めた。
数字は全部、まだ上がると言っている。
父親の支店長も。証券会社も。テレビも。伯父が毎朝読む株価欄も。
数字で決める人に、数字と反対のことを頼んでいる。
伯父の親指に、力が入った。
――弾かなかった。
百円玉は親指の上に乗ったまま、止まっていた。
伯父はそれをしばらく見つめていた。
それから、ゆっくりとポケットに戻した。
「……へえ」
伯父の声はいつもより少しだけ低かった。
けれど、撤退だ、とは言わなかった。
「五歳の言葉じゃないねえ。……そう来るか」
伯父はベンチの背にもたれて冬の空を見上げた。
灰色の雲が低く流れている。
「全部ね」
伯父は空を見たまま言った。
「分かった」
理由は聞かなかった。撤退ラインの話もしなかった。いくら損するの、と自分に聞くこともなかった。
四年間、この人は数字でだけ決めてきた。
その人が今、数字を見ずに決めた。
コインでもなく。
俺の、言葉で。
手のひらが汗で湿っていた。十二月の寒さの中で。
「ちび」
伯父が空から目を戻した。
「会社の金は、触らないよ。あれは、僕のじゃないから」
「……うん」
「それと」
伯父はベンチから立ち上がった。
俺の頭に、ぽん、と手を置いた。
「来年の正月も、来るんだろ」
うなずいた。
伯父はそれ以上何も言わずに家の中へ戻っていった。
十二月の半ば。
夕飯の前に電話が鳴った。
母親が出て、それから俺を呼んだ。
「琢真、悠蔵おじさんからですよ。琢真にですって」
母親は不思議そうな顔をしていた。
大人が五歳児を名指しで電話に呼ぶことはめったにない。
受話器を受け取った。
「もしもし」
「売ったよ」
伯父の声だった。
「全部」
一言だった。
「……うん」
「じゃあね」
電話は切れた。
受話器を戻した。戻したあとも、しばらく受話器から手が離れなかった。
伯父の財布は、これでもう相場の外にある。
残っているのは、祖父の空き地だ。
あの正月の庭で、祖父は「あそこも買う」と言った。買ったのだろうか。買ったとしたら、いくらで。
届かないものは届かない。今は伯父の財布だけで精一杯だ。
「琢真、おじさん、なんだって?」
母親が台所から聞いた。
「……ばいばい、って」
「あら。短いんですねえ」
母親は笑って鍋の火を弱めた。
十二月二十九日。
夕方のニュースが明るい声で始まった。
「――本日の大納会、日経平均株価は、史上最高値を更新しました――」
画面に、数字が映った。
三万八千九百十五円。
父親が箸を止めた。
「おお。最高値か」
テレビの中では、立会場を埋めた証券会社の人たちが拍手をしていた。
手を打ち鳴らす音。宙に舞う紙。
「来年は四万だな」
父親が嬉しそうに言った。
銀行員として、景気がいいのは悪くないことだ。父親の取引先の町工場も、ここ数年は忙しいらしい。
俺は数字を見ていた。
三万八千九百十五円。
見覚えのある並びだった。前世でバブルの頂点として何度も目にしたはずの数字だ。
けれど画面に映るまで、俺はこの値を思い出せなかった。覚えていたのは「年の終わり」という大きさだけで、何円だったのかも何日だったのかも、いつも読み飛ばしていた。
……この数字だったのか。
ここが、天井だ。
この数字はこの先三十年以上、超えられることがない。
伯父はこの数字を見て何を思っているだろう。
売らなければ、あと二週間、もう少し上がっていたかもしれない。そう思っているだろうか。
それとも、いつものように寝転んで見ているだろうか。
「琢真、ほら、紙吹雪ですよ」
母親がテレビを指さした。
美咲が真似をして画面の紙吹雪に手を伸ばした。
「……きれいだね」
五歳児の感想としては、模範解答のはずだ。
一九九〇年、一月。
新年最初の取引の日、株価は下がった。
大きな下げではない。ニュースでもそれほど大きく扱われなかった。
年明けの調整。すぐに戻る。評論家はそう言っていた。
次の日も下がった。その次の週も。
一月の終わり、父親は朝の新聞を畳みながらぽつりと言った。
「……下がったな」
四万円は、来なかった。
俺は朝飯の目玉焼きをつつきながら、曇った父親の顔を見ていた。
これが始まりだ。株も土地も、これから何年も下がり続ける。父親の取引先の町工場も、その波をかぶる。
全部を救うことは、五歳の俺にはできない。
「兄貴、大丈夫かな。ああいう人ほど、こういうとき持ってるもんだ」
「大丈夫ですよ。お義兄さんは、お昼ごはんもコインで決める人ですから」
「……それ、大丈夫な理由になるか?」
ならない。
あの人は十二月、そのコインを弾かなかったのだから。




