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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
幼年期・準備

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第25話 【悠蔵】コインの裏

 一九九〇年、三月。


 丹羽建設の経理室は、本社ビルの三階の、一番日当たりの悪い部屋にある。


 僕が頼んでそうしてもらった。

 日当たりのいい部屋にいると眠くなる。眠いと数字を間違える。数字を間違えるのは嫌いだ。


 帳簿を閉じた。今月も穴はない。


 電話が鳴った。

 取ったのは隣の机の経理課長だった。僕より十五も年上の、人のいい男だ。


「……はい。はい、ええ。専務は今、手が離せなくて」


 課長は受話器を手で押さえて僕の方を見た。


「取引先の、材木屋の社長です。株の話を聞いてほしいそうで」


「で、いくら損したの?」


 課長は受話器に向かって同じことを聞いた。

 聞いてから、青い顔で受話器を置いた。


「……言いたくないそうです」


「じゃあ、けっこう損したねえ」


 この二か月、似たような電話が何本もかかってくる。

 一月に下がり、二月に下がり、三月に入ってからは、下がり方が速くなった。四万円を超えると言っていた人たちは、いつの間にかテレビに出なくなった。


 取引先の社長。同業者。銀行の人。親父のゴルフ仲間。

 みんな少しずつ、あるいは大きく損をしている。


 丹羽建設の帳簿に株はない。会社の金は一円も相場に入れていない。

 親父が土地を買うのは止められないが、それは親父の仕事だ。僕の仕事は会社の金に穴を開けないこと。それだけ。


 僕の財布の方は、十二月の半ばに全部現金になった。

 そのことを知っているのは僕と証券会社の担当者と、五歳の甥っ子だけだ。


 担当者には理由を聞かれた。コインを投げなかったから、と答えた。

 食い下がられたので、甥っ子に言われてね、と本当のことを言ったら、腹を抱えて笑っていた。


 本当のことは、たいてい冗談に聞こえる。冗談だと思われている話を、確かめに来る人はいない。


 四年前の正月のことを、ときどき思い出す。


 弟の和人から、新聞の株価欄ばかり叩く子どもがいると聞いていた。面白いものは見に行くことにしている。

 僕は理由を聞かなかった。答えられないことを聞くのは時間の無駄だ。当たるか当たらないか、僕が見るのはそれだけだ。


 一度だけ、あの子が怖がっていたことがある。


 黒い月曜日の夜、三歳の子どもが受話器の向こうで、うる? と聞いた。

 一歳の頃からいつも、何かを知っていて言えない顔をしていた子だ。それがあの夜は、知らないことが起きて、怖がっていた。


 知らないこともあるのか、と思った。それで少し安心した。

 全部を知っている子どもより、知らないことがある子どもの方が、信用できる。占い師は外れない顔しかしないが、あの子は外れたときの顔をした。


 だから線を守った。

 線を決めたのは、ああいう日のためだ。三歳の子どもに言うことではなかったかもしれない。


 十二月に売ったことは、和人にもまだ言っていない。

 銀行員に教えると、次の日から銀行員の目で甥っ子を見る。あの子の前では、和人には父親の目のままでいてほしい。


 あの子が何者なのか。どこで何を覚えたのか。

 聞けばあの子は困る。困らせてまで知りたいことでもない。


 去年の十二月、弟の家の小さな庭で、僕は百円玉を出した。いつもの癖だ。

 けれど、あれを弾いて何を決めるつもりだったのだろう。


 数字で決めるなら、売らない。

 コインで決めるなら、半分の確率で売る。


 どちらでもなく、僕は、あの子の言葉で決めた。


 四年分の帳簿に、摘要の書けない行が一つだけある。


 経理室の窓から曇った空が見える。


 引き出しの中に見合い写真が一冊入っている。

 親父が持ってきた、今年の分。まだ開いていない。


 僕は自分のことだけは決めない。コインでも数字でも決めない。

 決めてしまったら、それが正しかったかどうか、一生、数字で測り続けることになる気がする。


 それなのに、あの子の言葉には賭けた。

 理由の分からない賭けに。


 昼になった。


 課長が出前のメニューを持ってきた。


「専務、お昼、どうされます」


「うん」


 ポケットから百円玉を出した。

 十二月に弾かなかった百円玉だ。


 親指に乗せて弾いた。

 くるくると回って手の甲に落ちる。


「表。蕎麦ね」


 課長は慣れた様子でメニューに丸をつけた。


 昼飯はコインで決める。

 金は数字で決める。


 そして、あの子のことは――


 まだ、決めていない。


 四月の日曜日、本家に顔を出した。


 親父に見合い写真の返事をするためだ。返事の内容はいつもどおり、のらりくらりと。


 庭に出ると、塀の近くで小さな背中が動いていた。琢真だった。


 和人の家族も花見がてら来ていたらしい。

 五歳の甥っ子は土蔵の白壁に向かってゴムボールを投げていた。投げて、跳ね返ったボールを捕る。また投げて捕る。


 でんわ、と言われた正月から、本家に来るたびにこれをやっている。

 最初はただの遊びだと思っていた。けれど投げる場所が一球ごとに違う。跳ね返る角度も違う。あの子はそれを全部捕っている。


 あれは練習だ。


 僕は縁側に腰を下ろした。


「ちび」


 琢真が振り返った。


「来年の正月の分、先に聞いとこうかと思って」


 琢真はボールを持ったままこちらへ歩いてきた。


 僕はポケットに手を入れた。百円玉には触れずに手を出した。


「で、次は何に使う?」


 売った金は今、僕の口座で眠っている。

 株にはもう戻さない。この子がそう言わない限り。


 琢真は迷わなかった。


「テニスコート」


 五歳の子どもの声だった。

 値段を聞く前に買う物を決めている客は、たいてい損をする。この子は四年前に蕪を抱えていたときから、ずっとその順番で来て、一度も損をしていない。


 理由はいつもどおり聞かない。代わりに、いつもの方を聞いた。


「で、いくらかかるの?」


 琢真は考えてから首を横に振った。


「わかんない」


「ふうん」


 それはそうだろう。五歳の子どもがコートの値段を知っていたら、それこそおかしい。


「じゃあ、調べとくよ」


 琢真はうなずいて、また土蔵の白壁の方へ走っていった。

 ボールが壁に当たる音が、規則正しく聞こえてくる。


 座敷の奥から親父の声がした。


「悠蔵! 写真の返事はどうした」


「いま、決めてるとこだよ」


 嘘ではない。決めないことを、僕は毎年ちゃんと決めている。

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