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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
幼年期・準備

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23/142

第23話 平成

 一九八九年、元日。


 四度目の本家の正月は、静かだった。


 去年の秋から、テレビは毎日同じ話を伝えている。

 天皇陛下の容態。下血。輸血の量。

 祭りが中止になり、テレビのコマーシャルから「お元気ですか」という声が消え、結婚式が延期された。自粛、という言葉を大人たちは毎日のように口にしていた。


 本家も例外ではなかった。


「今年は、静かにやる」


 玄関で祖父がそう言った。


 門松は例年より小さい。

 広間に酒は出ていない。祖父の前には湯呑みが一つ置かれているだけだった。


「酒は、陛下がお元気になられてからだ」


 祖父はそう言って茶をすすった。

 加減を知らない人が、加減をしている。それだけでこの冬の重さが分かる。


 上の伯父の家族も、父親も母親も、声を落として話していた。

 いとこたちでさえいつもより大人しい。上の子はもう小学校の三年生だ。


 美咲だけが何も知らずに、広間の畳の上を走り回っていた。

 一歳七か月。歩けるようになってから止まるということを知らない。


 俺は広間の隅でテレビを見ていた。


 音を絞った画面に皇居の映像が映っている。


 今年は何の年か。


 前世の知識で、俺は知っている。


 昭和が終わる。

 平成が始まる。


 そして、この年の終わりに、この国の株価は天井を打つ。


 午後、俺は縁側に出た。


 伯父はいつもの場所で寝転んでいた。

 ただし今年は座布団の下に、何か四角いものが挟まっている。


 厚紙の表紙。

 見合い写真だ。


「おじさん」


 声をかけると伯父は目を開けた。

 今年は最初から閉じきっていなかった。


「うん」


 俺は隣に座った。


 四歳五か月。

 会話はもう普通にできる。ただし、四歳児として。


 けれど今日は、少しだけはみ出すつもりでいた。


「おじさん、いま、なんばい?」


 伯父の目が大きくなった。しばらく俺を見ていた。


「何倍か、だねえ」


 数字は言わなかった。


「……へえ」


 それから、口の端で笑った。


「倍って言葉、知ってるんだ」


 四歳五か月の語彙に「倍」はまだ早い。自分で決めた時間割を、自分で踏み越えた。


 伯父は座布団の下から見合い写真を引き抜いた。

 開きもせずに縁側の板の上に置く。


「これね、親父が持ってきた。今年で四冊目」


 伯父は写真の表紙を指で叩いた。


「僕は、自分のことだけは、決めないことにしてるんだ。コインでも決めないし、数字でも決めない」


 なぜ、とは聞かなかった。

 この人が理由を聞かないように、俺も聞かない。


「で」


 伯父はいつもの調子に戻った。


「今年は?」


 言いたいことは、決まっていた。

 今年の終わりに、全部売ってほしい。年が明ける前に。


 けれど今言えば、一年先のことになる。

 一年先の予言までするのは、はみ出しすぎだ。


 それに。


 あの黒い月曜日を、俺は忘れていない。

 俺の地図は縮尺が粗い。天井が今年の終わりだとは覚えていても、十二月なのか十一月なのかは分からない。


 言うなら、もっと近くなってからだ。


「……そのまま」


 伯父はうなずいた。


「ふうん。いいんじゃない」


 伯父はまた寝転んだ。

 見合い写真は縁側の板の上に置かれたままだった。


 どちらも決めないまま。


 正月二日の朝も、俺は本家の庭で土蔵の白壁にゴムボールを当てていた。


 二度目の本家の正月に始めた壁当ては、本家に来るたびの決まりになった。三回に一回だった下手投げは、今は狙った場所に届く。

 投げる場所をずらせば跳ね返り方が毎回変わる。それを追えばレスポンスに、狙って当てればコントロールに入る。うちの塀より、この白壁の方がずっと広い。


 押し入れのラケットは、もう握れる。ただし畳から数センチしか持ち上がらない。

 いつか、ここにテニスボールを打ち込む。手ではなく、ラケットで。


 その白壁の前から、祖父に庭の奥へ連れ出された。


「琢真、来い」


 祖父は俺の手を引いて庭の奥まで歩いた。

 塀の近く。その向こうに畑と空き地が広がっている。


「あそこも、買う」


 祖父が空き地を指さした。


 三年前の正月、祖父は玄関で俺を掲げて「あそこまで全部だ」と言った。

 今年はその「全部」がさらに広がろうとしている。


「駅前の話が、いよいよ動くからな。この辺りの土地は、まだまだ上がる」


 祖父の目はあの日と同じだった。

 値段をつける前の目。土地を見る目。


 俺は祖父の手を握ったまま空き地を見た。


 上がる。

 たしかに、まだ上がる。今年の終わりまでは。


 その先は下がる。

 何年も何年も。


 喉まで言葉が出かかった。


 ――じいちゃん、それ、買わない方が。


 飲み込んだ。


 祖父の土地は祖父のものだ。

 丹羽建設の金は、会社の金だ。伯父でさえ、会社の金には手を出さない。


 四歳児が社長の土地の買い方に口を出す。

 そんなことをすれば、どうなるか。


 祖父は笑うだろう。「琢真は土地にも詳しいのか」と。

 そして、買うだろう。


 俺の手はまだ、そこまで届かない。


「どうした、琢真。寒いか」


 祖父が俺の顔を覗き込んだ。


「……ううん」


 首を横に振った。


 祖父は俺の頭を大きな手で撫でた。

 それから、また空き地を見た。


 あの空き地の値段が十年後にどうなっているか。

 この人は、まだ知らない。


 一月七日。


 朝からテレビがずっと同じ映像を映していた。


 父親は居間のテレビの前で正座をしていた。

 普段はあぐらをかく人だ。正座は窓口に座るときと、本家で祖父の前に座るときだけ。


 母親も隣に座っていた。

 美咲は母親の膝の上で訳も分からずに大人しくしていた。


 昭和が終わった。


 その日の午後、テレビに一人の男が映った。


 背広の男が、手に額縁を持っている。


 額縁には墨で書かれた二文字があった。


 平成。


「へいせい、か」


 父親が呟いた。


 俺はその二文字を見つめていた。


 この額縁の映像は前世でも何度も見た。教科書で。テレビの特番で。


 今、それを居間のテレビで、四歳の子どもとして見ている。


 平成元年。


 正月の縁側で飲み込んだ言葉は、年の終わりが近づいてから言う。十一月か、十二月の初め。天井の手前で。


 あの人の財布の中身を崖から落とさないために。


「琢真、どうした。難しい顔して」


 父親が俺を見ていた。


「……へいせい」


 俺は額縁の二文字を読んでみせた。


 父親は驚いた顔をした。


「お前、字、読めるのか」


 しまった。


「……テレビが、いった」


「ああ、そうか。そうだな」


 言い訳としては、悪くない出来だったはずだ。

 父親はうなずいて、もう一度テレビを見た。それから画面を見たまま、隣の母親に言った。


「なあ。琢真の絵本って、ひらがなのやつだけだよな」


「そうですよ。どうしてですか?」


「いや」


 父親は膝の上で、指を二本折った。

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