第23話 平成
一九八九年、元日。
四度目の本家の正月は、静かだった。
去年の秋から、テレビは毎日同じ話を伝えている。
天皇陛下の容態。下血。輸血の量。
祭りが中止になり、テレビのコマーシャルから「お元気ですか」という声が消え、結婚式が延期された。自粛、という言葉を大人たちは毎日のように口にしていた。
本家も例外ではなかった。
「今年は、静かにやる」
玄関で祖父がそう言った。
門松は例年より小さい。
広間に酒は出ていない。祖父の前には湯呑みが一つ置かれているだけだった。
「酒は、陛下がお元気になられてからだ」
祖父はそう言って茶をすすった。
加減を知らない人が、加減をしている。それだけでこの冬の重さが分かる。
上の伯父の家族も、父親も母親も、声を落として話していた。
いとこたちでさえいつもより大人しい。上の子はもう小学校の三年生だ。
美咲だけが何も知らずに、広間の畳の上を走り回っていた。
一歳七か月。歩けるようになってから止まるということを知らない。
俺は広間の隅でテレビを見ていた。
音を絞った画面に皇居の映像が映っている。
今年は何の年か。
前世の知識で、俺は知っている。
昭和が終わる。
平成が始まる。
そして、この年の終わりに、この国の株価は天井を打つ。
午後、俺は縁側に出た。
伯父はいつもの場所で寝転んでいた。
ただし今年は座布団の下に、何か四角いものが挟まっている。
厚紙の表紙。
見合い写真だ。
「おじさん」
声をかけると伯父は目を開けた。
今年は最初から閉じきっていなかった。
「うん」
俺は隣に座った。
四歳五か月。
会話はもう普通にできる。ただし、四歳児として。
けれど今日は、少しだけはみ出すつもりでいた。
「おじさん、いま、なんばい?」
伯父の目が大きくなった。しばらく俺を見ていた。
「何倍か、だねえ」
数字は言わなかった。
「……へえ」
それから、口の端で笑った。
「倍って言葉、知ってるんだ」
四歳五か月の語彙に「倍」はまだ早い。自分で決めた時間割を、自分で踏み越えた。
伯父は座布団の下から見合い写真を引き抜いた。
開きもせずに縁側の板の上に置く。
「これね、親父が持ってきた。今年で四冊目」
伯父は写真の表紙を指で叩いた。
「僕は、自分のことだけは、決めないことにしてるんだ。コインでも決めないし、数字でも決めない」
なぜ、とは聞かなかった。
この人が理由を聞かないように、俺も聞かない。
「で」
伯父はいつもの調子に戻った。
「今年は?」
言いたいことは、決まっていた。
今年の終わりに、全部売ってほしい。年が明ける前に。
けれど今言えば、一年先のことになる。
一年先の予言までするのは、はみ出しすぎだ。
それに。
あの黒い月曜日を、俺は忘れていない。
俺の地図は縮尺が粗い。天井が今年の終わりだとは覚えていても、十二月なのか十一月なのかは分からない。
言うなら、もっと近くなってからだ。
「……そのまま」
伯父はうなずいた。
「ふうん。いいんじゃない」
伯父はまた寝転んだ。
見合い写真は縁側の板の上に置かれたままだった。
どちらも決めないまま。
正月二日の朝も、俺は本家の庭で土蔵の白壁にゴムボールを当てていた。
二度目の本家の正月に始めた壁当ては、本家に来るたびの決まりになった。三回に一回だった下手投げは、今は狙った場所に届く。
投げる場所をずらせば跳ね返り方が毎回変わる。それを追えばレスポンスに、狙って当てればコントロールに入る。うちの塀より、この白壁の方がずっと広い。
押し入れのラケットは、もう握れる。ただし畳から数センチしか持ち上がらない。
いつか、ここにテニスボールを打ち込む。手ではなく、ラケットで。
その白壁の前から、祖父に庭の奥へ連れ出された。
「琢真、来い」
祖父は俺の手を引いて庭の奥まで歩いた。
塀の近く。その向こうに畑と空き地が広がっている。
「あそこも、買う」
祖父が空き地を指さした。
三年前の正月、祖父は玄関で俺を掲げて「あそこまで全部だ」と言った。
今年はその「全部」がさらに広がろうとしている。
「駅前の話が、いよいよ動くからな。この辺りの土地は、まだまだ上がる」
祖父の目はあの日と同じだった。
値段をつける前の目。土地を見る目。
俺は祖父の手を握ったまま空き地を見た。
上がる。
たしかに、まだ上がる。今年の終わりまでは。
その先は下がる。
何年も何年も。
喉まで言葉が出かかった。
――じいちゃん、それ、買わない方が。
飲み込んだ。
祖父の土地は祖父のものだ。
丹羽建設の金は、会社の金だ。伯父でさえ、会社の金には手を出さない。
四歳児が社長の土地の買い方に口を出す。
そんなことをすれば、どうなるか。
祖父は笑うだろう。「琢真は土地にも詳しいのか」と。
そして、買うだろう。
俺の手はまだ、そこまで届かない。
「どうした、琢真。寒いか」
祖父が俺の顔を覗き込んだ。
「……ううん」
首を横に振った。
祖父は俺の頭を大きな手で撫でた。
それから、また空き地を見た。
あの空き地の値段が十年後にどうなっているか。
この人は、まだ知らない。
一月七日。
朝からテレビがずっと同じ映像を映していた。
父親は居間のテレビの前で正座をしていた。
普段はあぐらをかく人だ。正座は窓口に座るときと、本家で祖父の前に座るときだけ。
母親も隣に座っていた。
美咲は母親の膝の上で訳も分からずに大人しくしていた。
昭和が終わった。
その日の午後、テレビに一人の男が映った。
背広の男が、手に額縁を持っている。
額縁には墨で書かれた二文字があった。
平成。
「へいせい、か」
父親が呟いた。
俺はその二文字を見つめていた。
この額縁の映像は前世でも何度も見た。教科書で。テレビの特番で。
今、それを居間のテレビで、四歳の子どもとして見ている。
平成元年。
正月の縁側で飲み込んだ言葉は、年の終わりが近づいてから言う。十一月か、十二月の初め。天井の手前で。
あの人の財布の中身を崖から落とさないために。
「琢真、どうした。難しい顔して」
父親が俺を見ていた。
「……へいせい」
俺は額縁の二文字を読んでみせた。
父親は驚いた顔をした。
「お前、字、読めるのか」
しまった。
「……テレビが、いった」
「ああ、そうか。そうだな」
言い訳としては、悪くない出来だったはずだ。
父親はうなずいて、もう一度テレビを見た。それから画面を見たまま、隣の母親に言った。
「なあ。琢真の絵本って、ひらがなのやつだけだよな」
「そうですよ。どうしてですか?」
「いや」
父親は膝の上で、指を二本折った。




