第22話 ラケットを握る
一九八八年、七月。
今年のウィンブルドンの決勝も父親の膝で見た。四歳になる直前の身体には、父親の膝はもう窮屈だ。
あの少年は決勝で負けた。勝った相手は少年より少し年上の、静かな顔の選手だった。
梅雨の晴れ間の日曜日、母親が衣替えを始めた。今日を逃すと、次にいつ布団を干せるか分からないらしい。
寝室の押し入れの襖が全開になった。
下の段から冬物の布団が引きずり出され、上の段から夏物の布団が下ろされる。
俺は部屋の隅で積み木を積むふりをしながら押し入れの上の段を見ていた。
二年間、見上げ続けてきた場所だ。
上の段の、一番奥。
長くて平たい、黒いケース。
母親が踏み台に乗って手を伸ばした。
夏物の布団を下ろし、その奥の段ボールを下ろし、そして――
「あ」
母親の手が止まった。
「懐かしい」
黒いケースがゆっくりと下りてきた。
ほこりをかぶっている。ファスナーの金具に錆が浮いている。
母親はケースを畳の上に置いて、ほこりを手で払った。
「大学のときの」
母親は俺の方を見た。
「……もういいかしらね」
ファスナーが開いた。
木のラケットだった。
フレームは何枚もの薄い木を重ねて作られている。表面のニスがところどころ剥げていた。グリップには黒い革が巻かれている。
ガットはゆるんでいた。指で押すと、ぺこりとへこむ。
積み木の三段目を、俺は置きそびれた。
「琢真、持ってみますか?」
母親は冗談半分の顔でラケットをこちらに差し出した。
四歳の誕生日を三週間後に控えた俺の前に。
両手を伸ばした。
グリップに、指が触れた。
革の感触。何年も人の手に握られて少し柔らかくなった革。
握った。
太い。
大人の手に合わせた太さは、四歳前の手には余る。指が回りきらない。親指と中指の間に隙間ができる。
それでも握った。
視界に表示が流れた。
【MISSION】
・ラケットを握る 達成
ミッション一覧の一番上。
四年間、未達成のまま居座り続けた一行が、消えた。
続けて、もう一つ。
テクニック +5
五。
スプーン一回で一。ショベルカー一回で一。これまでテクニックの経験点は一つずつしか入らなかった。
一度に、五。
……なるほど。
ミッション一覧の小さな項目は、ただの目標ではない。
経験点の、ご褒美だったのだ。
小さな一行の報酬は、達成して初めて分かった。
なら、一番下の一行も同じかもしれない。成功報酬の空白も、四つ全部取ったときに埋まるのだろうか。
表示が消えたあとも、しばらく一行目があった場所を見ていた。
グリップを握ったまま、持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。
重い。
前世でテレビ中継を見ていた頃のラケットは、もっと軽くて、もっと大きな面をしていた。これはその倍は重いように感じる。
両手で握り、腰を入れて、もう一度。
ヘッドが畳から数センチ浮いた。
それが限界だった。
ヘッドが畳に落ちて、ずる、と引きずる音がした。
握れた。
振れはしない。
でも、握れた。
「あら、琢真、重いですか?」
母親が笑った。
「そうですよねえ。ママも最初は重いと思ったんですよ」
母親の目が遠くなった。
大学のコートを思い出しているのかもしれない。
「……ちょっと、打ってみようかしら」
夕方、公園に行った。
母親はラケットを持ち、俺は美咲の乗った乳母車を押した。
正確には押すふりをした。四歳前の子どもに乳母車を押させる母親はいない。俺は取っ手の下の方を握っているだけだ。
公園の端にコンクリートの壁があった。
昔、誰かが壁打ちに使っていたらしい。ボールの跡がうっすらと残っている。
母親はケースの底から古いボールを一つ取り出した。
黄色だったはずのボールは灰色に近い色になっていた。
「見ててくださいね、琢真」
母親はボールを落とした。
弾んだボールに向かってラケットを振った。
空振りだった。
「……今のは練習」
もう一度。
空振り。
「……久しぶりだから」
もう一度。
今度は当たった。
ラケットのフレームに。ボールは明後日の方向へ飛んでいった。
俺は乳母車の取っ手を握ったまま黙って見ていた。
見えるのだ。
母親のフォームの、どこが悪いのか。
肘が身体から離れすぎている。ボールを見る目が、打つ瞬間に上がる。足が止まったまま手だけで振っている。
この四年、テレビで何度も見た。
あの夜、芝の上で跳んだ十七歳。父親の膝の上で追いかけてきた、世界の頂点の選手たち。比べれば、どこが違うのか全部分かる。
肘を、もっと身体に寄せて。
目はボールが当たるまで残して。
足を、先に動かして。
言えない。
四歳前の子どもが、母親のフォームを指導する。
そんなことをしたら、母親の日記が一冊では足りなくなる。
母親は打ち続けていた。
空振り。フレーム。空振り。当たった――と思ったら、壁の上を越えていった。
ボールを拾いに行くのは俺の役目になった。
壁の裏の草むらで灰色のボールを両手で拾い上げる。
思ったより軽い。表面の毛が指の腹にざらりと引っかかる。公園の赤いゴムボールとは手ざわりがまるで違う。
これを、ラケットで打つのだ。いつか。
壁のこちら側へ戻り、母親の足元を狙って下手で投げた。ボールは一度弾んで母親のつま先の前で止まった。
コントロール +1
「あら、助かります」
母親はボールを拾い、また空振りした。
俺はまた草むらへ走った。
十分が過ぎた。二十分が過ぎた。
母親の額に汗が浮かんでいる。
おっとりしているのに、こういうところは驚くほど粘る。
いつだったか、俺の最初の言葉が「ぱぱ」になった日。
母親は一週間で「ママ」を取り返した。あれと同じ顔だった。
三十分が過ぎた頃、ボールが初めて、壁に当たって母親の方へ返ってきた。
母親はそれをもう一度打った。
壁に当たって返ってきた。
二回、続いた。
「……ほら!」
母親が振り返った。
息を切らして、髪を額に貼りつけて、子どもみたいな顔をしていた。
「見ました? 琢真、見ました?」
見た。
肘は離れたままで、目は上がったままで、足は止まったままだった。
「ママ、じょうず」
「でしょう」
母親は胸を張った。
乳母車の中で美咲が手を叩いていた。
意味は分かっていないだろうが、母親はそれも嬉しそうだった。
その夜、布団の中でミッション一覧を開いた。
■ミッション一覧▽
・テニスボールを打つ▽
・ラリーを十回続ける▽
・試合に出場する▽
一番上の一行が、変わっていた。
テニスボールを打つ。
今日、母親が三十分かけてやったことだ。
四歳前の俺には、まだできない。ラケットが持ち上がらないのだから。
けれど、見えている。
パワーが足りない。ラケットを持ち上げ、振り抜くための。
テクニックが足りない。道具を思いどおりに扱うための。
そして、ラケットが合っていない。大人の、しかも古い、木のラケットでは、四歳の手には重すぎる。
子ども用のラケット。
それを手に入れるには、どうすればいいだろう。
母親に頼むか。
あるいは――
縁側で寝転ぶ、百円玉の男の顔が浮かんだ。
……いや。まだ早い。
あの人の財布は今、別のことに使われている。
押し入れの襖は、閉まっていた。
けれど、あの黒いケースは、もう上の段にはない。母親が下の段の手前に置いた。
手を伸ばせば、届く場所に。
俺は【STATUS】を閉じた。
残り、二十六年。
今日、ようやく一行目が終わった。




