第21話 幼稚園
一九八八年の正月、三度目の本家の縁側で、伯父は寝転んだまま聞いた。
「今年は?」
「そのまま」
建設の株を、持ったまま。大陸の形は変わらない。この国の土地と株は、あと二年は上がり続ける。
「ふうん。いいんじゃない」
株は寝かせておけばいい。
寝かせておけないのは、こっちの身体の方だ。
それから三か月。一九八八年、四月。
わかば幼稚園の遊戯室にはパイプ椅子が三十脚並んでいた。
前の列に、園児。後ろの列に、保護者。
壁には色画用紙で作った桜の花びらと、「にゅうえん おめでとう」の文字が貼ってある。
入園式である。
三歳八か月。胸にはチューリップの形をした名札。
「にわ たくま」とひらがなで書いてある。
俺はパイプ椅子に座ったまま左右を見回した。
同期だ。三か月健診の待合室以来の、同期との対面である。
あのときはみんな母親に抱かれていた。今はみんな自分の足で座っている。座っているだけでなかなかの成長だ。
右隣の子はさっきから鼻をほじっている。
左隣の子は式が始まる前から泣いている。
前の列の子は椅子の上に立ち上がって先生に座らされた。
……みんな、ぐにゃぐにゃしている。
いや、違う。ほかの子が普通で、おかしいのは俺の方だ。
身体の大きさはそれほど変わらない。違うのは座り方と、背筋の伸び方だ。三年半、毎日欠かさず経験点を稼いできた身体は、座っているだけでどこか周りから浮いていた。
気をつけなければならない。この部屋には大人の目が多すぎる。
「では、お名前を呼ばれたら、元気にお返事してください」
先生が名簿を開いた。
若い女の先生だ。エプロンにひよこのアップリケがついている。
一人ずつ名前が呼ばれていく。
返事の大きさはばらばらだった。大きすぎる子。小さすぎる子。返事をせずに泣き出す子。
「にわ、たくまくん」
呼ばれた。
声の大きさを調整する。
大きすぎず、小さすぎず。三歳児の平均より、ほんの少し元気に。
「はーい」
完璧だった。
はずなのに、後ろの列で父親が小さく噴き出したのが聞こえた。
何がおかしかったのかは分からない。
五月。
園庭でかけっこがあった。
白線で引いたコースを四人ずつ走る。
運動会の練習らしい。先生が手に笛を持って立っている。
スタートの位置に並んだ瞬間、俺は計算を始めた。
一位は目立つ。
ビリも目立つ。
二位か三位がちょうどいい。
笛が鳴った。
走り出して三歩目で気づいた。差がつきすぎている。
ほかの三人はまだスタートの勢いに振り回されている。腕の振り方がばらばらだ。
俺は公園の坂で二年間走り込んできた。身体が勝手に前に出る。
手を抜くか。いや、だめだ。
手を抜いた動作には経験点が入らない。生まれてこのかた何度も確かめたことだ。
本気で走り、なおかつ一位にならない方法。
ゴールの手前で俺はしゃがんだ。
靴ひもを結び直す。
これなら、自然だ。誰も不思議に思わない。
しゃがんだまま自分の靴を見た。
マジックテープだった。
……三歳児の靴に、ひもはない。
俺はマジックテープを一度はがし、もう一度貼った。
べり、という音が園庭に妙に大きく響いた。
その間に、三人がゴールした。
俺は四位だった。ビリである。
「たくまくん、靴、大丈夫?」
先生が駆け寄ってきた。
「……だいじょうぶ」
大丈夫ではない。
計画では二位か三位のはずだった。
六月になると鬼ごっこが流行り始めた。
鬼ごっこには、経験点が三種類も転がっていた。
逃げ続けるとスタミナに入る。
鬼になって追いかけるとスピードとレスポンスに入る。相手はボールよりも不規則に動く。避ける。止まる。急に向きを変える。
問題は一つ。本気で逃げると誰にも捕まらない。
捕まらない三歳児は、目立つ。
かといって、わざと捕まれば手を抜いたことになる。手を抜けば経験点が入らない。
何日か考えて答えを見つけた。
本気で逃げる。
ただし捕まる場所を選ぶ。
園庭の裏手に物置小屋がある。
その陰は先生たちの立つ場所から見えない。
俺は全力で逃げた。滑り台の下をくぐり、砂場の縁を跳び越え、ジャングルジムの周りを回る。
鬼の子は必死に追いかけてくる。追いつけない。
そして物置小屋の陰に入ったところで、足を止めた。
鬼の子が息を切らしながら俺の背中を叩いた。
「つかまえた!」
「……つかまった」
鬼の子は顔を真っ赤にして喜んでいた。
俺もそれなりに満足していた。
スタミナ +1
スピード +1
捕まった場所を見ていたのは鬼の子一人だけだ。
それから毎日、俺は物置小屋の陰で捕まり続けた。
一か月後、園の子どもたちの間で妙な噂が立った。
たくまくんは物置の裏でしか捕まらない。
……噂というのは、どこにでも立つものらしい。
その噂を、ひよこのアップリケの先生が首をかしげて聞いていた。
その夜、布団に入る前に居間で何かが動いた。
美咲だった。
座卓の縁につかまって、ぷるぷると膝を震わせながら横歩きをしている。
一歳二か月。
まだ伝い歩きだ。座卓の角を、今初めて曲がった。
「あら、美咲、角を曲がりましたよ!」
母親が日記を取りに走った。
この人は日記を取りに走るのが一番速い。
美咲は膝を震わせながらこちらを見た。
座卓の端まで来ると、手を伸ばして座卓の代わりに俺のズボンをつかんだ。
小さな手が布をぎゅっと握る。
握力。
――測らない。
一年前、病室で指を握られたときに、決めたことだ。
俺は美咲の頭に手を置いた。
美咲は俺のズボンをつかんだまま得意げに笑った。
布団に入ってから寝室の押し入れを見上げた。
上の段の奥。夏の夜に見上げたときから、一センチも近づいていない。
ミッション一覧の一行目は、まだ一行目のままだ。
「琢真、まだ起きてるんですか?」
襖の向こうから母親の声がした。
「……ねてる」
「寝てる子は、お返事しませんよ」




