第20話 黒い月曜日
その年の七月、ウィンブルドンでは二年続けて勝っていたあの少年が、早いうちに負けた。
父親はテレビの前で「番狂わせだ」とうなっていた。負けるはずのない人間も負ける。そのときは、テニスの話だと思っていた。
一九八七年、十月二十日。
夕方のニュースはいつもと違う音で始まった。
アナウンサーの声が少しだけ速い。
画面には外国の株式市場の映像。電光掲示板の前で背広の男たちが頭を抱えている。
「――ニューヨーク株式市場で、過去最大の暴落が――」
居間で母親が美咲をあやしながらテレビを見ていた。
美咲は生まれて五か月。首がすわり、何でも口に入れようとする時期だ。
「大変ですねえ」
母親は他人事の声で言った。
この家に株を持っている人間はいない。表向きは。
画面が切り替わった。
東京。
見慣れた兜町の風景。株価の数字が赤く並んでいる。
「――東京市場も全面安となり、日経平均株価は――」
数字が読み上げられた。
俺は積み木を持ったまま固まった。
下がり幅が大きすぎる。
一日でこれほど下がるのか。
俺はこの日を知らない。
前世の知識で、バブルが膨らみ、弾けることは知っている。
一九九〇年ごろに、この国の株と土地が崩れ落ちることも知っている。
けれど一九八七年の秋に世界中の株価が一日で崩れるなんて、俺の記憶のどこにもなかった。
積み木が手から落ちた。
もしかして、これが崩壊の始まりなのか。
俺が一九九〇年だと思い込んでいただけで、本当は今だったのか。
知らないことが起きる。
俺の知識には穴がある。
その穴がどれくらい大きいのかすら今の俺には分からない。
その夜、父親が帰ってくるのを待ちかねて、俺は袖を引いた。
「ぱぱ。おじさんに、でんわ」
三歳になって会話は解禁している。
ただし三歳児らしく。短く、たどたどしく。
「悠蔵兄貴に? 今日はやめとけ。兄貴も忙しいだろ」
「でんわ」
「琢真」
「でんわ、する」
父親は疲れた顔で俺を見下ろした。
今日は父親の支店も大変だったのだろう。ネクタイがいつもより早くほどかれていた。
それでも父親は黒電話の前に座った。
「……お前、兄貴のこと好きだなあ」
ダイヤルが回る。
伯父は怒ると声が一段低くなって、「撤退だ」とだけ言うそうだ。前に父親が母親に話していた。
聞くべきなのは、言葉より声の高さだ。
「兄貴? ごめん、こんな日に。琢真がまた、どうしても話したいって」
受話器が耳に当てられた。
今度は自分の手で持てた。半年で腕の力もついた。
「もしもし」
伯父の声はいつもと同じだった。
テレビの中の大騒ぎが、別の国の話に聞こえる調子だった。
「おじさん」
「うん」
「うる?」
短い沈黙があった。
受話器の向こうで紙をめくる音がした。
帳簿か、新聞か。何かの数字を見ているらしい。
「で、いくら損するの?」
蕪の正月と同じように伯父は自分に聞いた。
「……まだ、線の上だよ」
線。
半分になったら売る、という線。
伯父の手元にあるのは最初の正月に買った建設の株だ。電話の株は春に売ったが、こちらはずっと持ったままでいる。
「売らない」
それだけ言って伯父は黙った。
俺は受話器を握りしめた。
本当に、それでいいのか。今日の下がり方を見たのか。明日、もっと下がったら。
言いたいことは山ほどあった。
けれど、この口では何一つ言えなかった。
「琢真」
伯父が俺の名前を呼んだ。
「線を決めたのは、こういう日のためだよ」
受話器の向こうで、かちゃりと小さな音がした。
俺は受話器を父親に返した。
伯父の声は最後まで一段も低くならなかった。撤退とも言わなかった。
それだけで安心している自分が情けない。相場を知っているのは、俺の方のはずなのだが。
数日後の夜。
俺は布団に入ったふりをして廊下で耳を澄ませていた。
台所で父親と母親が話している。
「支店、大丈夫なんですか?」
「うちの客は、大丈夫だ。……たぶん」
父親の声は疲れていた。
「株を買ってたお客さんが何人か、青い顔で来た。定期を崩して電話会社の株を買った人もいてな。……止められなかった」
「あなたのせいじゃないですよ」
「分かってる。分かってるけどさ」
しばらくお茶をすする音だけが聞こえた。
「日本は、戻ると思いますか?」
「分からん。戻るって言う人もいるし、これで終わりだって言う人もいる。……俺には、分からん」
銀行員は分からないことを分かるとは言わない。
この人のそういうところを、俺は信用している。
「悠蔵さんは、何か言ってました?」
「何も。いつもどおり、飄々としてた」
父親が小さく笑った。
「あの人だけは、昔から変わらないんだよなあ」
十一月。
テレビの中の数字は、上がったり下がったりを繰り返していた。暴落の日の値を割り込む日もあれば、大きく戻す日もある。
それでも、底が抜けたような下がり方はあの一日だけだった。
東京は世界の市場の中で一番早く立ち直る、と言う人もいた。日本経済の底力。内需の強さ。大人たちは、もう半分くらい浮かれ直していた。
崩壊の始まりでは、なかった。
布団の中で俺は天井を見上げていた。
隣では美咲が寝息を立てている。
もう夜泣きは減った。俺が通訳する機会も減った。
今回、俺は間違えた。
知らないことが起きて慌てた。
慌てて売らせようとした。もし伯父が俺の言葉どおりに売っていたら、一番慌てた日に、一番慌てた値段で手放すところだった。
俺の知識は地図のようなものだ。
ただし縮尺がひどく粗い。
大陸の形は載っている。どこに大きな山脈があって、どこで大きな川が海に注ぐか。一九九〇年ごろに、この国の相場は崖から落ちる。それは分かる。
けれど、道は載っていない。
途中にある小さな谷や、ぬかるみや、落石。
そういうものは地図にない。歩いてみるまで、分からない。
では道を歩くにはどうするか。
伯父の線だ。
半分になったら売る。
それまでは何が起きても売らない。慌てない。
あの人は地図を持っていない。
代わりに、足元を見て歩く方法を知っている。
大陸の形は俺が教える。
道の歩き方は伯父に任せる。
それでいい。
隣で美咲が小さく寝返りを打った。
半年で寝返りとは、なかなか筋がいい。
俺は目を閉じた。
あの電話で伯父は最後に俺の名前を呼んだ。
ちび、でも、お前、でもなく。
琢真、と。




