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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
幼年期・準備

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19/142

第19話 妹

 一九八七年、五月。


 母親が入院した夜、家には父親と俺の二人が残された。


 二年半前にもこういう夜があった。

 母親が同窓会に出かけ、父親が一人でミルクとおむつと格闘した夜。子守唄の代わりに、融資事務取扱要領を読み聞かせた夜。


 あのときの父親は、ひどかった。


 今夜の父親は少しだけ上達していた。


「よし。今日は、パパがカレーを作る」


 エプロンをつけ、玉ねぎを刻み、肉を炒める。

 手つきは危なっかしいが、指は切っていない。カレーの匂いがちゃんとカレーの匂いになっていく。


 鍋をかき混ぜながら父親は得意げに振り返った。


「どうだ、琢真。パパもやればできるだろう」


 俺は炊飯器を見た。


 ふたが開いていた。

 中身は空っぽだった。


「ぱぱ。ごはん、ない」


 二歳九か月。時間割では二語文までだ。三語になっているが、緊急事態なので許してほしい。


 父親は炊飯器を覗き込み、それから天井を仰いだ。


「……米、炊いてない」


 その夜の夕飯はカレーと食パンだった。

 意外と、悪くなかった。


 寝かしつけの時間になると父親は鞄から冊子を取り出した。

 見覚えのある、あの表紙。


 融資事務取扱要領。


 父親は、冊子を開きかけて――閉じた。


「……今日は、やめとくか」


 冊子を鞄に戻し、俺の布団の横に寝転がる。


「琢真。パパにはな、兄貴が二人いるんだ」


 知っている。


「上の兄貴とは、ちょっと歳が離れててな。よく、下の兄貴と二人で遊んでた。……下の兄貴は、あの頃からコインを投げてたよ。どっちの道で帰るか、とか」


 父親は天井を見ながら笑った。


「兄弟ってのは、いいもんだぞ。喧嘩もするけどな」


 明日か、早ければ今夜。俺に妹か弟ができる。

 母親は夕方から病院にいる。


「……お前も、兄貴になるんだな」


 父親の声が揺れた。


 俺は目を閉じた。

 寝たふりをしながら明日のことを考えていた。


 夜明け前に電話が鳴った。

 父親は受話器を握ったまま、「女の子」と一言だけ言ってしばらく動かなかった。


 その日の昼、父親に抱かれて病院の廊下を歩いた。


 新生児室の前には大きなガラス窓があった。


 ガラスの向こうに小さなベッドが並んでいる。

 どのベッドにも、赤くて、小さくて、しわくちゃの生き物が入っていた。


「あれだ」


 父親が俺を抱き上げてガラスに近づけた。


「右から二番目。あれが、美咲《みさき》だ」


 美咲。


 名前は前から決まっていたらしい。女の子なら、美咲。

 春に、美しく咲く。


 右から二番目のベッドで小さな生き物が眠っていた。


 顔は赤く、目は開いていない。

 手は握りこぶしの形のまま、ときどき動く。


 俺も、こうだったのだろうか。


 ふと、思いついた。


 【STATUS】。


 俺の視界には俺の能力値が見える。

 では他人を見ながら強く意識したらどうなるのか。


 美咲を見つめて意識した。


 開いたのはいつもの画面だった。

 俺のパワー。俺のテクニック。俺のミッション一覧。


 もう一度試しても同じだった。見えるのは自分のものだけらしい。


 残念だった。この子が将来どんな能力を持っているのか知りたかった。

 ……いや、見えない方がいいのかもしれない。数字で見えてしまったら、俺はきっと、この子を数字で見てしまう。


 午後、母親の病室に入った。


 母親はベッドの上でやつれた顔をしていた。

 けれど、笑っていた。


「琢真。来てくれたんですね」


 看護婦さんが白い布にくるまれた美咲を連れてきた。

 母親がそれを受け取り、ベッドの上で俺の方へ傾けた。


「お兄ちゃんですよ、美咲」


 お兄ちゃん。


 前世の俺には兄弟がいなかった。

 少なくともそういう記憶はない。


 俺はベッドの端から手を伸ばした。


 美咲の握りこぶしに指先が触れた。


 小さな手がゆっくり開いて、俺の人差し指を包むように握った。


 把握反射だ。三か月健診で、年配の医者が鉛筆で確かめていた、あれだ。

 握る力は弱いのに、離すつもりのない握り方をしている。


 反射的に頭の中で計算が始まった。

 この力なら、握力でいえば――


 やめた。


 指を握られたまま、俺は美咲の顔を見た。


 三十歳。


 俺が三十歳になるとき、この子は二十七歳だ。

 グランドスラムを取れなければ、俺はその年に心臓が止まる。


 この子は兄のいない二十八歳を迎えることになる。


 ……冗談じゃない。


「琢真、ずっと握られてますねえ」

「気に入られたんだな」


 父親と母親が笑っている。


 指を抜こうとは、思わなかった。


 五月の終わり、美咲が家に来た。


 そして、家の夜が変わった。


 夜中の一時。美咲が泣く。

 父親が起きる。母親が起きる。

 夜中の三時。美咲が泣く。

 父親は起きない。母親が起きる。

 夜中の五時。美咲が泣く。

 父親が起きる。母親は起きない。


 二人の目の下に、日に日に隈が濃くなっていく。


 ある夜、美咲がまた泣いた。


 隣の布団で俺は目を開けた。


 この泣き方は知っている。


 泣く側にいたときは、自分の声が外にどう聞こえているのか分からなかった。

 外から聞くと、違いは思っていたよりずっとはっきりしている。腹が減ったときは途切れずに続く。眠いときは、ぐずぐずと尻すぼみになる。

 今のは短く切っては、また上げる。尻の気持ちが悪いときの泣き方だ。


 父親が半分寝ながら起き上がった。


「……眠いのか。よしよし」


 美咲を縦に抱いて寝室の中を歩き回り始めた。


 違う。


 濡れたおむつのまま縦に揺らされるのがどれほど情けないか、俺はよく覚えている。

 あの頃も、この人の答えは「眠い」だった。


 口が勝手に動いた。


「みさき、おむつ」


 父親の足が止まった。


 母親が布団から顔を上げた。

 半信半疑の顔で美咲のおむつを開ける。


 ……固まった。


「……ほんとに、濡れてます」


 母親が俺を見た。

 父親も俺を見た。


 暗い寝室で二人の視線が俺に集まっていた。


 俺は目を閉じた。


 寝たふりである。

 二歳九か月の子どもが、夜中に妹の泣き声を通訳するなどあってはならない。


「……たまたま、ですよね」

「……たまたま、だろうな」


 母親はもともと、泣けばまずおむつを見る人だ。息子がその口癖をまねただけ。そう思ってくれればありがたい。


 その夜、俺は布団の中で固く決意した。


 二度と、妹の通訳はしない。


 ――三日後の夜、美咲の泣き声を聞いて、俺はまた「おなか」と言ってしまった。


 妹の通訳は兄の最初の失策になった。

 そして、両親の睡眠時間を少し延ばした。

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