第19話 妹
一九八七年、五月。
母親が入院した夜、家には父親と俺の二人が残された。
二年半前にもこういう夜があった。
母親が同窓会に出かけ、父親が一人でミルクとおむつと格闘した夜。子守唄の代わりに、融資事務取扱要領を読み聞かせた夜。
あのときの父親は、ひどかった。
今夜の父親は少しだけ上達していた。
「よし。今日は、パパがカレーを作る」
エプロンをつけ、玉ねぎを刻み、肉を炒める。
手つきは危なっかしいが、指は切っていない。カレーの匂いがちゃんとカレーの匂いになっていく。
鍋をかき混ぜながら父親は得意げに振り返った。
「どうだ、琢真。パパもやればできるだろう」
俺は炊飯器を見た。
ふたが開いていた。
中身は空っぽだった。
「ぱぱ。ごはん、ない」
二歳九か月。時間割では二語文までだ。三語になっているが、緊急事態なので許してほしい。
父親は炊飯器を覗き込み、それから天井を仰いだ。
「……米、炊いてない」
その夜の夕飯はカレーと食パンだった。
意外と、悪くなかった。
寝かしつけの時間になると父親は鞄から冊子を取り出した。
見覚えのある、あの表紙。
融資事務取扱要領。
父親は、冊子を開きかけて――閉じた。
「……今日は、やめとくか」
冊子を鞄に戻し、俺の布団の横に寝転がる。
「琢真。パパにはな、兄貴が二人いるんだ」
知っている。
「上の兄貴とは、ちょっと歳が離れててな。よく、下の兄貴と二人で遊んでた。……下の兄貴は、あの頃からコインを投げてたよ。どっちの道で帰るか、とか」
父親は天井を見ながら笑った。
「兄弟ってのは、いいもんだぞ。喧嘩もするけどな」
明日か、早ければ今夜。俺に妹か弟ができる。
母親は夕方から病院にいる。
「……お前も、兄貴になるんだな」
父親の声が揺れた。
俺は目を閉じた。
寝たふりをしながら明日のことを考えていた。
夜明け前に電話が鳴った。
父親は受話器を握ったまま、「女の子」と一言だけ言ってしばらく動かなかった。
その日の昼、父親に抱かれて病院の廊下を歩いた。
新生児室の前には大きなガラス窓があった。
ガラスの向こうに小さなベッドが並んでいる。
どのベッドにも、赤くて、小さくて、しわくちゃの生き物が入っていた。
「あれだ」
父親が俺を抱き上げてガラスに近づけた。
「右から二番目。あれが、美咲だ」
美咲。
名前は前から決まっていたらしい。女の子なら、美咲。
春に、美しく咲く。
右から二番目のベッドで小さな生き物が眠っていた。
顔は赤く、目は開いていない。
手は握りこぶしの形のまま、ときどき動く。
俺も、こうだったのだろうか。
ふと、思いついた。
【STATUS】。
俺の視界には俺の能力値が見える。
では他人を見ながら強く意識したらどうなるのか。
美咲を見つめて意識した。
開いたのはいつもの画面だった。
俺のパワー。俺のテクニック。俺のミッション一覧。
もう一度試しても同じだった。見えるのは自分のものだけらしい。
残念だった。この子が将来どんな能力を持っているのか知りたかった。
……いや、見えない方がいいのかもしれない。数字で見えてしまったら、俺はきっと、この子を数字で見てしまう。
午後、母親の病室に入った。
母親はベッドの上でやつれた顔をしていた。
けれど、笑っていた。
「琢真。来てくれたんですね」
看護婦さんが白い布にくるまれた美咲を連れてきた。
母親がそれを受け取り、ベッドの上で俺の方へ傾けた。
「お兄ちゃんですよ、美咲」
お兄ちゃん。
前世の俺には兄弟がいなかった。
少なくともそういう記憶はない。
俺はベッドの端から手を伸ばした。
美咲の握りこぶしに指先が触れた。
小さな手がゆっくり開いて、俺の人差し指を包むように握った。
把握反射だ。三か月健診で、年配の医者が鉛筆で確かめていた、あれだ。
握る力は弱いのに、離すつもりのない握り方をしている。
反射的に頭の中で計算が始まった。
この力なら、握力でいえば――
やめた。
指を握られたまま、俺は美咲の顔を見た。
三十歳。
俺が三十歳になるとき、この子は二十七歳だ。
グランドスラムを取れなければ、俺はその年に心臓が止まる。
この子は兄のいない二十八歳を迎えることになる。
……冗談じゃない。
「琢真、ずっと握られてますねえ」
「気に入られたんだな」
父親と母親が笑っている。
指を抜こうとは、思わなかった。
五月の終わり、美咲が家に来た。
そして、家の夜が変わった。
夜中の一時。美咲が泣く。
父親が起きる。母親が起きる。
夜中の三時。美咲が泣く。
父親は起きない。母親が起きる。
夜中の五時。美咲が泣く。
父親が起きる。母親は起きない。
二人の目の下に、日に日に隈が濃くなっていく。
ある夜、美咲がまた泣いた。
隣の布団で俺は目を開けた。
この泣き方は知っている。
泣く側にいたときは、自分の声が外にどう聞こえているのか分からなかった。
外から聞くと、違いは思っていたよりずっとはっきりしている。腹が減ったときは途切れずに続く。眠いときは、ぐずぐずと尻すぼみになる。
今のは短く切っては、また上げる。尻の気持ちが悪いときの泣き方だ。
父親が半分寝ながら起き上がった。
「……眠いのか。よしよし」
美咲を縦に抱いて寝室の中を歩き回り始めた。
違う。
濡れたおむつのまま縦に揺らされるのがどれほど情けないか、俺はよく覚えている。
あの頃も、この人の答えは「眠い」だった。
口が勝手に動いた。
「みさき、おむつ」
父親の足が止まった。
母親が布団から顔を上げた。
半信半疑の顔で美咲のおむつを開ける。
……固まった。
「……ほんとに、濡れてます」
母親が俺を見た。
父親も俺を見た。
暗い寝室で二人の視線が俺に集まっていた。
俺は目を閉じた。
寝たふりである。
二歳九か月の子どもが、夜中に妹の泣き声を通訳するなどあってはならない。
「……たまたま、ですよね」
「……たまたま、だろうな」
母親はもともと、泣けばまずおむつを見る人だ。息子がその口癖をまねただけ。そう思ってくれればありがたい。
その夜、俺は布団の中で固く決意した。
二度と、妹の通訳はしない。
――三日後の夜、美咲の泣き声を聞いて、俺はまた「おなか」と言ってしまった。
妹の通訳は兄の最初の失策になった。
そして、両親の睡眠時間を少し延ばした。




