第18話 今年は何がいい?
一九八七年、元日。
本家で迎える二度目の正月は、門から玄関までが一度目より少しだけ近く感じた。
距離は変わらない。俺の足が伸びたのだ。
母親のお腹は、はっきりと大きくなっていた。
「座ってなさい」
玄関に入るなり祖母が母親の手を取った。
そのまま広間の上座のこたつまで連れていき、座らせ、ひざ掛けをかけ、お茶を置いた。流れるような手際だった。
「台所は、今年は立たなくていいから」
「でも、お義母さん――」
「いいの。去年の分も、来年の分も、まとめて休みなさい」
母親はそれ以上何も言わなかった。
この家で祖母に逆らえる人間はいない。
「おお、来たか!」
祖父が奥から現れた。
手には分厚い封筒が二つ。
「一つは琢真の分で――」
「もう一つは?」
「こっちの、腹の中の――」
「まだ生まれてないでしょう」
祖母の一言で、封筒は一つに減った。
祖父は減った方の封筒をしばらく名残惜しそうに見ていたが、やがて懐にしまった。しまっただけで諦めたわけではなさそうだった。
俺は広間を見回した。
上の伯父。伯母。いとこ二人。
縁側に、背中が一つ。
座布団を枕に、寝転がっている背中。
昼の寿司が片付いたあと、俺は庭に出た。
ポケットには赤いゴムボールが入っている。公園でよその子に蹴ってもらっていたのと同じものを、秋に母親が買ってくれた。
庭の隅に土蔵がある。白い壁は広くて平らで、窓が一つもない。
投げた。
二歳五か月の下手投げは、三回に一回しか壁まで届かない。届いたボールはどこへ跳ねるか分からない。それを追う。
公園と同じで追えばレスポンスに入る。自分で投げれば、よその子に頼まなくていい。
ラケットはまだ押し入れの上の段だ。
握れないうちは手で投げるしかない。
二十球ほど拾ったところで縁側の背中が目に入った。
壁の続きはあとにして、縁側は歩いた。去年と同じように板の継ぎ目に合わせて。
伯父は去年と同じ場所で、去年と同じように寝転んでいた。
俺が隣に座ると、目を閉じたまま言った。
「一年目、上がったよ」
挨拶も、前置きもない。
「倍にはなってないけどね」
うなずいた。
土地は上がり続けている。建設の株も上がっている。けれど、一年で倍になるほど世の中は甘くない。半分になったら売る、という線には一度も近づかなかった。
伯父はゆっくりと起き上がった。
あぐらをかき、ポケットから百円玉を出す。
親指に乗せて――弾かずに指の間で転がした。
「で」
伯父が言った。
「今年は、何がいい?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
去年は俺が頼んだ。今年は伯父の方から聞いてきた。
当たったから、続ける。理由は、いらない。
俺は言葉を選んだ。
二歳五か月。二語文までは解禁している。
会社の名前は言えない。言えば、どこで覚えたのかという話になる。伯父は聞かないだろうが、周りの大人は聞く。
この年の、一番大きな熱狂。
前世の俺でも知っている、有名な話。国の電話会社が民営化されて、その株に日本中が群がった。
「でんわ」
伯父の眉が動いた。
「でんわ、かう」
伯父の返事はなかった。
それから、胸ポケットの新聞を取り出して一面を開いた。
電話会社の株が来月上場する。そういう見出しが大きく載っていた。
「……電話ねえ」
伯父は新聞をたたんだ。
「まあ、いいんじゃない」
それから、いつものように自分に聞いた。
「で、いくら損するの?」
伯父は指を折った。
「一株で、車が一台買える値段だってさ。今年のお年玉分じゃ、全然足りないねえ」
そうか。
そこまでは考えていなかった。
「足りない分は、僕が貸す。利息は取るけど」
伯父は真顔で言った。
二歳児に、利息を取ると。
「建設のは、そのまま持っとく。電話は別口。いつもどおり半分になったら売る。それでいいね」
うなずいた。
利息については、うなずくしかなかった。
今年はお年玉に伯父から借りた分を足して、電話を一株。
二歳五か月にして、借金ができた。
縁側を降りて土蔵の壁に戻った。
どこへ跳ねるか分からないボールを、また追う。
二月。
夕飯どきのテレビが電話会社の株の話ばかりになった。
上場初日、買い注文が殺到して値段がつかない。
ようやくついた値段は、売り出しの値段を大きく上回った。
証券会社の前に行列ができている。
「田辺のやつ、当たったんだよ」
父親が箸を置いてぼやいた。
「抽選。去年の秋に申し込んでたらしくてな。今日、支店で万歳してた」
「あら、よかったじゃないですか」
「よかったけどさあ……。兄貴も買ったらしい。抽選じゃなくて、値がついてからな」
父親はどこか冷めた顔で俺を見た。
「あの騒ぎはなあ。窓口に来るお客さんまで、株の話しかしないんだ。定期預金を崩して買いたいって人も来た」
「止めたんですか?」
「止める権限は、ないよ。お客さんの金だ」
父親は味噌汁を一口飲んだ。
「ただな。みんなが買うものは、みんなが売るときが怖い」
俺はご飯粒のついたスプーンを持ったまま、父親の顔を見た。
この人の勘は正しい。
前世の知識で、俺はこの熱狂の結末を知っている。
上がって、上がって、それから大きく下がる。
ただ、いつが一番上なのかは、知らない。
春だったか、夏だったか。そこまで細かいことを、前世の俺は覚えていなかった。
伯父の線は半分になったら売る。
それは下がったときの線だ。上がりきったところで降りる線は、まだ引いていない。
スプーンからご飯粒が一つ落ちた。
四月。
株価はまだ上がっていた。
テレビの中の人たちは、まだ浮かれていた。
けれど俺は落ち着かなかった。
熱狂には終わりがある。
終わりがいつ来るのかは分からない。分からないなら、まだ上がっているうちに降りた方がいい。
日曜の午後、俺は父親の袖を引いた。
「ぱぱ」
「ん?」
居間の隅の、黒電話を指さす。
「おじさん、でんわ」
父親は首をかしげた。
「悠蔵兄貴に? なんで」
答えない。答えられない。
ただ、黒電話を指さし続けた。
父親はしばらく俺の顔を見ていた。
それから、ため息を一つついて受話器を取った。
ダイヤルを回す指が、一度止まった。
最近この子の言うことを無視しにくい。
父親の顔にはそう書いてあった。
「……ああ、兄貴? 俺。いや、琢真がさ、兄貴と話したいって」
受話器が俺の耳に当てられた。
重い。
黒電話の受話器は二歳児の手には重すぎる。父親が支えてくれている。
「もしもし」
伯父の声だった。
電話越しでもゆるく伸びている。
俺は息を吸った。
「でんわ、ばいばい」
受話器の向こうが、静かになった。
隣で父親が噴き出しかけて、やめた。
笑っていいのかどうか、決めかねている顔だった。
俺は訂正しない。できない。
ただ、受話器の向こうの沈黙に耳を澄ませた。
紙をめくる音がした。
「……まあ、もう高すぎるしね。……分かった」
伯父の声が聞こえた。
「ばいばいね」
向こうで、先に受話器が置かれた。
父親が受話器を置いた。
「兄貴、なんだって?」
俺は首を横に振った。
知らないふりをするのが、二歳児の一番の特技だ。
台所から母親がゆっくりと歩いてきた。
お腹はもうはち切れそうに大きい。
「電話ですか? 誰からです?」
「琢真が、兄貴に電話ごっこ」
「あら。お兄ちゃんになる練習ですか」
母親は笑いながら大きなお腹をさすった。
電話ごっこ、と答えた父親は、受話器を置いた手をしばらく電話機の上に乗せたままでいた。
来月、家族が一人増える。
その前に、売った電話の株で伯父への借金は返せるはずだ。二歳児の借金は、利息ごと三か月で片づく計算である。




