第16話 かぶ
正月二日、朝のうちにもう一度本家へ行った。
祖父は新聞を一面から読む。上の伯父はテレビ欄から読む。
悠蔵伯父だけは株価欄から読んでいた。
俺はよちよちとそちらへ歩いた。三歩ごとに座布団の縁につまずきかけながら、伯父の膝元までたどり着いた。
新聞に手を置いた。
秋に父親の膝の上で何度も叩いた、あの欄だ。
今度は叩かない。そっと置く。
建設。
小さな見出しの下に社名と数字が縦に並んでいる段。
手のひらをそこに乗せた。
前世の俺が知っているのは、大きな流れだけだ。
この国の土地はこれから何年も値上がりを続ける。土地が上がれば、土地を掘って建てる会社も上がる。
それ以上の細かいこと――どの会社が、いつ、いくらになるか――は、知らない。前世の俺はそういうことに興味のない人間だった。
だから手のひらの幅で示すしかない。
伯父は新聞をどけなかった。
俺の手を払うでもなく、読むのをやめるでもなく。
ただ俺の手がどの段に乗っているのかを、ちらりと見た。
「……ふうん」
それだけ言って伯父は隣のページをめくった。
昼前に、俺は作戦を次の段階に進めた。
指さすだけでは足りない。
言葉が要る。
幸い二文字で済む単語だ。
広間の隅で父親が上の伯父と話していた。一番伝わりそうな大人から試すのが定石である。俺は父親の袖を引いた。
「かぶ」
「ん?」
「かぶ」
父親は首をかしげた。
「かぶ?」
そうだ。
株だ。父親は銀行員だ。この単語の意味を、この家で一番正確に知っているはずの人間だ。
父親が何か言いかけたとき、台所の方から祖母が顔を出した。
「なあに、琢真ちゃん。かぶが欲しいの?」
祖母の手にはざるが一つ。
中には、七日の七草粥のために用意したらしい青菜と――白くて丸い、ひげの生えた野菜が入っていた。
「はい、すずな。七日に、みんなで食べようね」
白くて丸いものが俺の両手に乗せられた。
蕪だった。
「おお、琢真は野菜が好きか!」
祖父が膝を叩いた。
「野菜の好きな子は、丈夫になるぞ。なあ和人」
「……うん。まあ、ほうれん草は食べるな」
広間が温かい笑いに包まれた。蕪を抱えた一歳児を中心に。
俺は蕪の重みを腕に感じながら天井を見上げた。
泣き声はおむつ。
円高はえんだ。
テニスは手。
そして、株は、蕪。
この家族の翻訳機能には、何か根本的な欠陥がある。
午後は蕪を抱えたまま縁側に座っていた。
手放すと、また誰かに「かぶ」の話を蒸し返される。抱えている限り、野菜好きの子で済む。
それに、この蕪、意外と重い。持っているだけでパワーの経験点が入る。
隣では悠蔵伯父が昨日と同じ格好で寝転んでいた。
目はやはり閉じきっていない。
「それ」
伯父が寝転んだまま言った。
「野菜のほう?」
俺は首を横に振った。
それから、伯父の胸ポケットの新聞を指さした。
次に、庭の向こうを指さした。塀の向こうに広がる土地。祖父の畑と、その先の空き地と、これから何かが建つ場所。
新聞。土地。
今の俺に出せる、精一杯の文章だった。
伯父はゆっくりと起き上がった。
あぐらをかき、蕪と、俺と、庭の向こうを順に見た。
「株?」
うなずいた。
伯父はそれ以上何も聞かなかった。
代わりに自分に聞くように呟いた。
「で、いくら損するの?」
伯父は指を折って何かを数えていた。
「半分になったら売る。それでいいね」
賭ける前に、負けたときの線を引く。
前世の俺の周りに、こういう大人はいなかった。少なくとも俺自身はそうではなかった。
「お年玉、いくら入ってた?」
知らない。一歳児に祝儀袋の中身を確認する権利はない。
けれど伯父は昨日玄関で見た封筒の厚みを思い出したらしい。指でそれくらいの幅を作ってみせた。
「あれは和人が口座に入れちゃうからねえ。動かせない。じゃあ、それと同じだけ、僕の財布から出す」
伯父はひとさし指を立てた。
「お年玉分だけだよ。なくなっても、文句は言いっこなしだねえ」
文句など言うものか。
俺は蕪を抱えたまま深くうなずいた。
蕪の葉が伯父の膝をかすめた。
縁側の端を、盆を持った祖母が通っていった。
夕方、玄関先で父親が伯父を呼び止めた。
俺は母親に抱かれて離れたところにいた。
「兄貴。縁側で琢真と何か決めてたって、おふくろが言ってた」
「うん」
「子どもの思いつきに金を使うなよ。株なんて、遊びでやるもんじゃない」
銀行員の声だった。
伯父はいつもの調子で答えた。
「僕の金だよ」
「そういう問題じゃ――」
「昼飯はコインで決めるけどね。金は、数字で決める」
伯父は百円玉をポケットから出して親指に乗せた。
弾かずにそのまま手のひらに戻す。
父親はしばらく黙っていた。
それから、声を低くした。
「……兄貴。琢真に、何を見た」
伯父は百円玉を指の間で転がした。
「さあねえ。当たったら、教えるよ」
帰りの車の中で俺は蕪を膝に乗せていた。
結局、祖母が持たせてくれたのだ。七草の日までに、うちで食べなさい、と。
「七草まで、抱えて帰るんですか?」
助手席の母親が笑った。
父親はハンドルを握ったまま何も言わない。
賭けは始まった。
伯父の財布からお年玉と同じ額が出る。一歳児の指さしを根拠に。
前世の俺は自分の金でさえこういう賭け方をしたことがない。
俺が知っているのは、流れだけだ。
もし外れたら、伯父の金が消える。文句は言うなと言われたが、申し訳ないとは思う。
それでも。
前世の知識が、初めてこの世界の何かを動かした。
父親は分かっていて、聞き流した。祖母のところでは蕪になった。
けれど一人だけ、理由を聞かずに株だと受け取った大人がいた。
この金の行き先は、俺の中ではもう決めてある。
毎日、好きなだけ打てる場所。ボールと、ラケットと、いつか俺の球を受けてくれる相手。
新聞の株価欄は遠回りに見えて、テニスへの一番の近道のつもりだ。
車の揺れが心地いい。
蕪を抱えたまま、俺は眠りに落ちた。
一歳五か月、人生で最初の投資である。
元手は伯父の財布で、手元に残った現物は蕪が一個だった。




