第15話 本家の正月
一九八六年、元日。
父親は車に乗る前からネクタイと格闘していた。
「……なんで正月にまで」
舌打ちが一回。結び直しが二回。
銀行員は正月も銀行員らしい。いや、本家では祖父の前に出るから、というのが本当の理由だろう。三男は三男なりに気を遣うのだ。
「今年はちゃんと行けますねえ」
助手席の母親が後ろを振り返って笑った。
去年の正月、俺は三十九度の熱で布団の中にいた。突発性発疹。本家の正月は中止。
あれから一年。熱は出していない。自己管理の賜物である。
親族の集まりで一歳五か月にできることといえば、抱かれて回されることくらいだ。
チャイルドシートの中で、俺は今日の目標を一つに絞った。
下の伯父に会う。
会社の金を預かり、一度も穴を開けたことがない、損はせん男。
秋に祖父が玄関で言っていた言葉を、俺は覚えている。
――あいつも、たまには顔を出すだろう。
たまにしか顔を出さない男が、今年は来る。そうであってくれないと困る。
一歳五か月の立てる目標にしては、ずいぶん相手任せだ。
本家の門から玄関まで歩数で測ろうとして、やめた。
遠い。敷地の中に、近所の公園が丸ごと入る。
黒い瓦の日本家屋の前に手入れの行き届いた庭があり、池まである。
庭に面して長い縁側が一直線に延びていた。家の形をした、権力だ。
「おお、来たか!」
玄関で待ち構えていた祖父が、俺を母親の腕から奪い取った。
そのまま高々と掲げる。
「見ろ琢真、あそこまで全部だ」
庭の向こう、塀の向こう、畑の向こうまで。
祖父の指が指す範囲は、一歳児の視力の限界を超えていた。
そして掲げる高さは、一歳児の安全の限界を超えていた。
「あなた」
廊下の奥から声がした。
割烹着の小柄な女性が、盆を持ったまま立っていた。
「落としますよ」
祖父は黙って俺を下ろした。
すとん、と。驚くほど静かに。
一升餅の日に、立つほど分厚い封筒を送りつけてきた男が、たった一言で黙った。
この家の社長は祖父だ。
だが社長の上に、もう一人いる。
使える大人を探すなら、誰が誰に弱いかも記録しておく必要がある。俺は頭の中の名簿の一番上に祖母を書き足した。
広間にはすでに親族が集まっていた。
「建、琢真だ」
祖父に呼ばれて恰幅のいい男が振り向いた。上の伯父、会社の跡取りだ。
「おう、大きくなったな」
それだけ言って伯父は年始の客の方へ戻っていった。
代わりに寄ってきたのが、その息子たちだった。
俺より四つか五つ上の、いとこが二人。
「ちっちゃいのだ」
「ちっちゃいの、運ぼうぜ」
運ぼうぜ、とは。
いとこたちは俺の両脇を抱えて積み木のように持ち上げようとした。
かつて祖父がこの家の砂場に砂を十トン運ばせたとき、大喜びしたのはこの二人だと聞いている。新しいおもちゃへの情熱は、砂にも従弟にも等しく注がれるらしい。
冗談ではない。
抱えられて運ばれても、経験点は一点も入らない。
俺は身をよじって床に降り、本気のほふく前進で廊下へ逃げた。
こちらは入る。
「はええ!」
「ちっちゃいの、はええ!」
いとこたちの歓声を背に、俺は廊下の角を曲がった。
少し得意だった。
昼が近づくと、広間で小さな争いが起きた。
「寿司だ」
「お蕎麦です。お正月なんですから」
祖父と祖母である。
出前を寿司にするか蕎麦にするか。聞けば毎年のことらしい。社長の上の人も、この件だけは譲らない。
「じゃあ、表が寿司ね」
いつの間にか、広間の隅に男が一人座っていた。
痩せていて、背広は着ていない。正月なのに寝起きのような顔をしている。
男は親指の上に百円玉を乗せていた。
「悠蔵、あんたまた――」
祖母が言い終わる前に、百円玉が弾かれた。
くるくると回って男の手の甲に落ちる。
男はそれを見もせずに言った。
「寿司だねえ。まあ、いいんじゃない」
「兄貴、またそれか」
父親が呆れた声を出した。
悠蔵。この人が下の伯父だ。
一度も穴を開けたことがない、損はせん男が、昼飯を百円玉で決めた。
俺は廊下の柱につかまったまま固まった。
……まさか。会社の金もあれで決めてないだろうな。
表が出たら買い、裏が出たら売り。
それで穴を開けずに来たのなら、それはそれで別の意味で恐ろしい。
ふと伯父がこちらを見た。
目が合ったのは一瞬だった。伯父は何も言わずに目をそらし、百円玉をポケットにしまった。
寿司が片付くと、大人たちの酒盛りが始まった。
祖父の声が一番大きく、上の伯父の声が二番目に大きい。父親は三男らしく、ほとんど聞き役に回っている。
赤ん坊が一人いなくなっても、誰も気づかない音量だった。
俺は縁側に出た。
長い縁側は、板の継ぎ目が等間隔に並んでいる。それに合わせて足を出すと、歩幅がそろう。歩幅がそろうと、経験点の入りがいい。
継ぎ目を十六本数えたところで足が止まった。
縁側の真ん中に、人が寝ていた。
悠蔵伯父だった。
座布団を枕に、腕を組み、胸ポケットに新聞を差したまま、静かな寝息を立てている。
起こさないように、またいで通ろうとした。
片足を上げたところで気づいた。
寝息の割に、まぶたが《《閉じきっていない》》。
薄く開いた目の奥で黒目がこちらを見ていた。
「お前か」
伯父は寝転んだまま言った。
「株価欄を叩くちびは」
片足を上げたまま下ろせなくなった。
株価欄。
父親の膝の上で、新聞のあの細かい数字の欄を叩いたのは、秋のことだ。
この人はそれを覚えていて、今日ずっと俺を見ていた。
返事をしようとした。
出てこない。一歳五か月の口から出せるのは、「まんま」と「ぱぱ」と「ママ」と「わんわん」くらいだ。どれもこの場面に向いていない。
だから、指を使った。
伯父の胸ポケットの新聞をまっすぐに指さした。
伯父はしばらく俺の指を見ていた。
それから、口の端だけで笑った。
「……へえ」
伯父はそれ以上何も言わず、また目を閉じた。閉じきらない目で。
どうしたの、とも。なんで株価欄なんか、とも。
大人はみんな聞く。聞いて勝手に答えを決める。泣けばおむつ、えんだと言えば、えんだ。
この人は、聞かなかった。
――この人だ。
夕方、帰り支度をしていると祖父が玄関に現れた。
「正月だからな」
握らされた祝儀袋は、また分厚かった。
この人には加減という機能がついていない。
母親が困った顔で祖母を見た。
祖母は首を横に振った。止められる額をもう越えているらしい。
「琢真の口座に入れとく」
父親が封筒を預かった。銀行員として、それ以外の処理はない。
俺は父親の手の中の封筒を見上げた。
金はある。
この一年半、ずっと探してきたものが目の前にある。
けれどそれを動かせるのは両親だけだ。一歳五か月の手は、祝儀袋一つ握っていられない。
玄関の戸が開く。
冷たい風と一緒に、振り返った視界の端に縁側が映った。
悠蔵伯父が寝転んだまま百円玉を親指で弾いていた。
くるくると回って手の甲に落ちる。
今度は伯父はそれを見ていた。
正月はまだ二日ある。




