第14話 【母】育児日記
日記をつけ始めたのは琢真が生まれた日からだった。
続いたためしがない、と夫には笑われた。確かに学生のころに何度か始めた日記は、どれも三日と持たなかった。
けれど、この日記はもう一年以上続いている。
書くことが、毎日あるからだ。
〇月〇日
琢真、よく眠る。泣く。飲む。眠る。
お医者さまは順調ですと。
あの人は抱っこのたびに首を支える手が震えている。
〇月〇日
琢真の泣き方が、三種類ある気がする。
短いのと、長いのと、二回続けるのと。
なにか意味があるのかしらと思って、三日間気をつけて聞いてみた。
全部おむつだった。
今読み返すと最初のころは数行で終わっている。
書くことが増えたのは首がすわったころからだった。
〇月〇日
同窓会。久しぶりに夜に出かけた。
帰ったら、あの人が琢真の横で大の字で寝ていた。胸の上に、銀行の分厚い冊子。
融資、なんとか、要領。
これで寝かしつけたらしい。
琢真は八条で寝たと、翌朝あの人が得意げに言っていた。
なにが得意なのかは、分からない。
手のかからない子だ、とよく言われる。
ただ一つだけ、不思議なことがある。
琢真は時々、何もないところをじっと見ている。
天井でも、壁でもない。
目の前の、少し上のあたり。そこに何かが浮かんでいるみたいに、目が左から右へ、上から下へと動く。まるで、字を読んでいるみたいに。
初めて気づいたときは少しだけ怖くなって、実家の母に電話をした。
「赤ちゃんはね、大人に見えないものが見えるのよ。あなたも小さいころ、何もない壁に向かって笑ってたわよ」
そういうもの、らしい。
それからは気にしないことにした。
細かいことを気にしないのは私の数少ない取り柄だと思う。
この日記の中で、一番字が乱れているのは、年末の三日間だ。
〇月〇日
熱。三十九度二分。
夜、あの人が車を出した。
とっぱつせいほっしん。よくある、と。
よくある。よくある。よくある。
〇月〇日
下がった。
〇月〇日
ぶつぶつ、出た。
よかった。
読み返すと自分でも笑ってしまう。
あの三日間、琢真は泣かなかった。
熱い身体でじっと天井を見て、ときどき、あの「字を読む目」をしていた。
元気になってから、疲れると自分で座布団の上に転がって休むようになった。
一歳にもならない子が、自分で休む。
なぜ。
〇月〇日
四回目のはいはい競争。あの人、膝当てをつけて勝った。
キャッチャーの膝当て。どこで買ってきたのか。
琢真は少し悔しそうな顔をしていた。
悔しそうな顔をするこの子を、初めて見た気がする。
〇月〇日
夜中、居間が青白く光っていた。
あの人と琢真が、テレビでテニスを見ていた。夜中の一時。
叱った。
琢真は私が叱り始めたとたんに寝たふりをした。
寝室に運ぶとき、テレビの声が聞こえた。十七歳の子が優勝したと。
あんな目でテレビを見る子だったかしら。
〇月〇日
琢真が「ぱぱ」と言った。
あの人が帰ってきた、ちょうどそのときに。
あの人は三日間、支店長の愚痴を言わなかった。
ここだけの話。
少し悔しかった。
一日中一緒にいるのは私なのに。おむつを替えているのも、壁の粥を拭いているのも、私なのに。
それから一週間、私は家中で「ママ」と言い続けた。
大人げなかったと思う。でも一週間で言ってくれた。
あの人の三日に対して、私の上機嫌は五日続いた。
勝ったと思う。
〇月〇日
お義父さんがいらした。ショベルカーのおもちゃをくださった。
琢真が「て」と言った。お義父さんは「手だ」と大喜び。
あの人は苦い顔をしていた。
でも、あの「て」は、なんだか続きがありそうな「て」だった。
手、ではない気がする。
なんとなく、だけど。
〇月〇日
公園で、琢真がテニスのボールを離さなかった。
おじさんに謝った。指を一本ずつ剥がした。三本目が固かった。
帰り道、琢真は自分の手をずっと見ていた。
ボールの形に、少し丸めたまま。
ボールの日のことは、日記の数行には書ききれなかった。
ボールが飛んでくる前から、琢真はコートをずっと目で追っていた。メリーの鳥を追うのと同じ目で。あの夜、テレビの芝を見ていたのと同じ目で。
行って、戻ってきて、また行って。
コートの人たちが下手なのが、私にはなんだか懐かしかった。私もあのくらい下手だった。
大学のサークルで二年だけやっていた。
あのころはテニスが流行っていて、みんな、なんとなくラケットを持っていた。私もなんとなく。
その、なんとなくのラケットが、まだ押し入れの奥にあるはずだ。
琢真に見せてあげようかしら。
まだ早いか。
その日の夕方、そんなことを考えながら夕飯の支度をしていたら、居間から夫の声がした。
おい、歩いてるぞ、と。
菜箸を持ったまま走った。
琢真が柵から手を離して、居間の真ん中を歩いていた。
一歩ずつ足元を確かめるみたいに。怖いのか、唇をぎゅっと結んで。
熱の三日間でさえ、泣かなかった子なのに。
夫の膝に倒れ込んだ琢真を見て、気づいたら泣いていた。
夫も泣いていた。一歳の子どもが六歩歩いたことに、大人が二人で泣いた。
夫に抱き上げられた琢真は、泣いていなかった。
夫の肩越しに、また何もないところを見ていた。
この日記に何度も書いてきた、あの目で。
それから、ほんの少し口の端が下がった。
何を見ていたのかは、分からない。
分からないけれど、あの子が一人で何かを抱えているような気がして、私は菜箸を置いて、夫ごと琢真を抱きしめた。
〇月〇日
押し入れとは反対の方向に歩いたくせに、寝る前はずっと押し入れの方を見ていた。
押し入れにあるのは冬の布団とアルバムと、私の古いラケットくらいだ。
どれが気になるのかしら。
布団だと思う。明日、干してあげよう。




