第13話 【父】窓口の向こう側
月曜日の朝、支店のシャッターが上がる前に、俺はネクタイを結び直した。
今朝も一度、舌打ちをした。結婚してから毎朝こうだ。妻は何も言わないが、たぶん数えている。
「丹羽くん、ちょっと」
支店長に呼ばれたのは開店の十分前だった。
「今日の十時、大川製作所の社長が来る。融資の追加の件だ」
「はい」
「分かってると思うが、うちの基準では、今の大川さんに追加は出せない」
「……はい」
「君が担当だ。丁寧に、な」
大川製作所は町外れにある小さな工場で、社員は十二人、アメリカ向けの精密部品を作っている。
この秋からの円高で注文がばたばたと止まった。ドルで受け取る代金が円に直すと目減りしていくから、作れば作るほど赤字になる。
九月の連休明け、テレビで外国のホテルの映像を見た夜のことを思い出す。
あの夜、膝の上の琢真がテレビの数字を指さして、何か言おうとしていた。えんだ、と。
十時きっかりに大川社長は窓口に来た。
作業着の上に、少しサイズの合わない背広を着ていた。六十を過ぎた白髪の人で、うちの親父よりいくつか上に見えた。
「丹羽さん。どうか、もう三か月だけ」
社長は書類を窓口の台に置いた。
手書きの資金繰り表だった。数字が何度も消しゴムで消されて書き直されている。
俺はその表を上から下まで読んだ。
読むまでもなかった。三か月延ばしても、四か月目に同じ数字が来る。
「大川さん。申し訳ありません」
頭を下げた。窓口の台の上で、額がもう少しで書類に触れるくらいまで。
「現在の担保評価と、返済財源の見通しでは、追加のご融資は――」
条文を読み上げるように言った。あの冊子の第五条と第八条。琢真が寝た、あの条文だ。
社長はしばらく黙って俺の頭を見下ろしていた。
「……丹羽さんが悪いんじゃない。分かってますよ」
顔を上げると社長は笑っていた。
「円のせいだ。円が、勝手に強くなりやがった」
社長は書類を鞄にしまい、深く一礼して窓口を離れた。自動ドアが開いて閉まるまで、俺はその背広の背中を見ていた。
しばらく次の番号札を呼べなかった。
昼休み、同期の田辺と、裏の定食屋に入った。
「顔、死んでるぞ」
「大川さんのとこ、断った」
「ああ……あそこ、きついよな。うちの取引先、どこも似たようなもんだ」
田辺は焼き魚の骨を器用に外しながら言った。
「で、息子は元気か。歩いたんだろ、この前」
「歩いた。六歩」
「六歩か。うちのは、まだ這ってるぞ。同じ月に生まれたのに」
田辺の息子は琢真と三週間しか違わない。入行した年も子どもが生まれた年も同じで、俺たちはこういう話ばかり比べ合っている。
「琢真、なんか変わってるんだよな」
言ってから、しまったと思った。田辺が箸を止めて身を乗り出した。
「変わってるって?」
「いや、家の中をずっと這い回ってるんだよ。遊んでるっていうより、決まったコースを回ってる感じで。はいはい競争したら本気で負けた」
「お前が遅いんだよ」
「膝当てつけて、やっと勝った」
田辺が味噌汁を噴いた。
「……お前、一歳児相手に膝当て」
「キャッチャー用だぞ」
田辺はしばらくテーブルに突っ伏して肩を震わせていた。ひとしきり笑ってから顔を上げて言った。
「天才なんじゃないか、お前の息子」
冗談の口調だった。
俺も笑って返そうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……天才かどうかは、知らないけどさ」
窓の外をトラックが通り過ぎていった。丹羽建設、と書かれた、うちの親父の会社のトラックだった。
「あいつ、何かに向かってる気がするんだよ」
「何かって?」
「分からない。分からないけど、あいつは一歳の頭で何か決めてるんだよ。それで毎日、そこに向かって這ってる。転んでも泣かないで、黙ってまた同じところから這い出すんだ」
田辺は今度は笑わなかった。
「……それ、親バカって言うんだぞ」
「知ってる」
知っている。親バカなら、決めているのは俺の方だ。向かう先を勝手に決めて、息子の背中に貼りつけているだけかもしれない。
それでも、あの背中が何かを目指していないとは、どうしても思えなかった。
俺たちは定食の残りを黙って食べた。
午後三時、シャッターが下りたあと、机の電話が鳴った。
「はい、丹羽です」
「和人? 僕。手形の書類ねえ、来週でいいかな」
下の兄貴だった。名乗らなくても、語尾の伸び方で分かる。
丹羽建設で金の出入りを一手に任されている兄貴は、仕事の用事でたまにうちの支店に電話をかけてくる。用事が済むと決まって雑談をしていく。電話代は会社持ちだから、長い。
「いいよ。……兄貴、大川製作所って知ってる?」
「大川さん? 知ってるよ。親父の代からの付き合いだねえ。うちの重機の部品、昔はあそこで削ってもらってた」
「今日、追加融資を断った」
電話の向こうで兄貴が少し黙った。
「……そう。まあ、今のあそこなら、断るのが筋だねえ」
「分かってる。分かってるけどさ」
「和人が断らなかったら、どうなってた?」
「……四か月後に、もっと大きい額で、同じ話になってた」
「じゃあ、今日断ったのが一番傷が浅い。大川さんを守ったのは和人だよ。本人は、今はそう思わないだろうけどねえ」
兄貴はいつもの軽い口調で言った。
軽いのに、妙に数字の匂いがする言い方だった。この人はいつもそうだ。昼寝の途中みたいな声で、一番冷たくて一番正しいことを言う。
「……兄貴、今の、慰めてる?」
「慰めてないよ。損得の話をしてる」
「そうだよな」
「で、そっちはどう。琢真、元気?」
話が変わった。
「元気だよ。歩いた。あと、新聞の株価欄ばっかり叩く」
電話の向こうで兄貴が笑った。
「株価欄? 一歳で?」
「一歳で」
「そりゃいいねえ。見込みがある」
「何の見込みだよ」
「さあねえ。……正月、連れておいでよ。そういう変なやつは、僕は好きだ」
電話が切れた。
下の兄貴は三十を前にしてまだ独り身だ。親父が持ってくる見合いを、角を立てずにすべてかわしている。何でもそつなくこなすくせに、自分のことだけは決めない。
そういう兄貴が、「好きだ」と言った。
受話器を置いてからも、俺はしばらく電話機の黒い背中を眺めていた。
それから帰り支度を始めて、正月に琢真に着せる上着はどこにしまったかと、気の早いことを考えた。
その日は七時に支店を出られた。
駅から家までの道を歩きながら、大川社長の笑った顔を何度も思い出した。円が、勝手に強くなりやがった。
えんだ。
えん、だ。
……えん、だか。
足が止まった。
円高。
まさか。
一歳の子どもがテレビのニュースを見て、「円高」と言おうとした?
俺は夜道の真ん中で一人で笑い出した。あの夜、「お前にはまだ早いぞ」と笑ったのは俺の方だ。
「……まさかな」
声に出して言った。
言ったら少し安心した。
そんなはずはない。赤ん坊は大人の口真似をする。俺が「円高になる」とぼやいたのを、たまたま真似しただけだ。それに、「えんだ」は、「円高」の真似にしては短すぎる。
株価欄を叩くのも、たまたまだ。コースを回っているように見えるのも、はいはい競争で本気を出すのも、たまたま。
たまたまが、少し多い気がするだけだ。
家の門をくぐると居間の明かりがついていた。玄関の戸を開けると、廊下の向こうから小さな足音が近づいてくる。
ぺた、ぺた、ぺた。まだおぼつかない一歳児の足音だ。
琢真が廊下の角から顔を出し、俺を見上げて両手を伸ばした。
「ぱぱ」
初めて呼ばれた日は、こっちが騒ぎすぎてろくに聞いていなかった。今夜のは、廊下の向こうから俺を呼びに来た声だった。
鞄を放り出して抱き上げると、この一年でずいぶん重くなっていた。
琢真は俺の肩越しに、いつもの「何もないところ」を見ていた。少し上のあたりで、字を読むみたいに目が動く。それから俺の顔を見た。
「……えんだ」
心臓が一回だけ変な跳ね方をした。
「……ああ。えんだ、だな」
俺は琢真の背中を叩いた。
とん、とん、と。げっぷを出させるときと同じ速さで。
この子が何を見ているのか、俺には分からない。
分からないけれど、もし本当に何かが見えているのなら。
いつか、それを話してくれる日が来るといい。
そのときはちゃんと窓口に座って最後まで聞こう。
規則に書いていない話でも。
台所から妻の声がした。
「おかえりなさい。ご飯、温め直しますね」
「ああ。ただいま」
その夜、俺は融資事務取扱要領を開かなかった。代わりに琢真の横で、ねんねんころりよを二小節だけ歌った。
続きはやっぱり知らなかった。




