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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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第147話 楽しい?

 柏の空白はモンテカルロを休んだ分だけ長くなった。

 欠場の理由を聞かれても、言えるような理由はなかった。


 ただ、あの町の空気の中にもう少しいたかった。


 ラケットバッグは玄関に置きっぱなしで、朝はセンターへ歩き、夕方は台所で千夏を見ている。


 世界一の選手の生活としてはあまりにも普通だった。

 普通の生活がこんなに音の少ないものだとは、忘れていた。


 新居の台所は夜になると、電気が一つだけ点く。

 千夏が決めたことだった。手元だけ明るければ包丁は使えるし、鍋も見える。

 それ以上の明るさは台所に余計な仕事を持ち込む。


 センターまで歩いて七分の二階建ては、引っ越してちょうど一年になる。

 壁の白がまだときどき新しく見える。


 台所の壁には千夏の字でその週の献立が貼ってあった。

 曜日ごとに朝、昼、補食、夕。全部に栄養素の名前が小さく書き添えてある。


 千夏は俺の大会の予定ではなく、俺の身体の予定で、暮らしを組んでいる。

 俺は台所のテーブルの椅子に座ってそれを眺めていた。


 千夏は翌日の補食を作っている。包丁がまな板を叩く。

 とんとん、とん。玉ねぎが細かくなっていく音だ。

 鍋の蓋の下では鶏肉に火が入る音がしている。


 この時間の台所に座っているのが、いつのまにか、俺の一日の終わりの決まりになっていた。


 何もしない。何かをする千夏を見ている。


 千夏の手は昔よりずっと速くなっていた。

 昔は道具を握るたびに緊張して、指先が白くなっていた。

 今は包丁が手の一部のように動く。


 思い出したことが一つあったので、口に出した。


「今日も、子どもに勝つって言われた」


「誰に」


「クリニックの男の子。小二くらいの。次はぼくが勝つって、毎回言う」


 千夏は手を止めなかった。


「勝たせてあげた?」


「今日は、まだ」


「今日はまだ、なんだ」


 千夏の声が笑っていた。俺も笑っていた。


 包丁がまた一定の間隔で鳴り始めた。

 子どもの頃はこの音を聞くと、次に何が来るのか分からなかった。


 今は来るものが味まで分かる。

 分かるのに、待っている間はいつも少し楽しい。


 鍋の火を千夏が弱めた。蓋の下の音が静かになった。


 いつのまにか、台所の音が包丁と鍋の湯気の音だけになっていた。

 冷蔵庫の低い唸りが、その下に流れている。


 千夏は次の玉ねぎを手に取った。俺の方は見ていない。

 まな板の上の玉ねぎを見ている。


 手を止めずに千夏が言った。


「楽しい?」


 一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。子どもの話の続きかと思った。

 その通りに答えかけて、口が止まった。


 違う。千夏が聞いているのは、子どもの話でも今日の話でもない。


 テニスが楽しいのか。


 この一年、千夏は俺のすぐ隣にいた。

 俺の試合を一つも見逃さず、その前後の食事を全部作った。

 数字が動かなくなったことも、屋根の鳩を数えていたことも、全部知っているはずだ。


 子どもと打つのは楽しい。強くなるのも一時期は楽しかった。

 けれど、どちらも聞かれたことへの答えにはならない。

 はい、とも言えない。言えば嘘になる。千夏に嘘はつかない。

 それは七歳のときに決めたことだ。


 俺は口を開けたまま答えを探した。

 答えがある人間は、こんなふうに口を開けたまま固まらない。


 千夏は少し待った。三つ数えるくらいの時間だった。

 それから包丁を動かした。


「そっか」


 それ以上は聞かなかった。

 何が分かったのかを、俺の方も聞かなかった。


 思い出した。おととしの九月、センターのベンチで千夏に言ったこと。

 三十まで生きられないと思ってた。今は、と千夏が聞いて、俺は答えた。

 今は数えてない。


 あの日の千夏は、数えてないなら、と言いかけて帰った。

 続きを言うのは自分の番だと、そのときの俺は思っていた。


 玉ねぎが細かくなっていった。


 二日後の朝から、食卓の皿が一枚増えた。


 朝食に卵焼きがついていた。千夏の卵焼きは少し甘い。

 子どもの頃から変わらない味だ。


 朝の補食には、いつもの栄養の並びの中に何の説明もなくからあげが入っていた。


 夕食で千夏がまたその皿を置いた。


「からあげ、今日も」


 俺はしばらく皿を眺めた。


「昼もあった」


「知ってる。昼が四個で、夜は五個」


 それで話は終わった。

 あの夜の質問を、千夏は蒸し返さなかった。


 ただ、俺の好物が一品ずつ献立に増えていく。

 からあげ、卵焼き。翌週は豚の生姜焼き。その次は煮卵。


 栄養のバランスだけなら、からあげは一日に三回出てこない。


 二週間、その繰り返しだった。皿は増えて、俺は全部食べた。

 千夏は食べる俺にときどき目をやり、何も言わずに次の皿を出した。


 からあげはおいしかった。おいしい、と思うことは簡単だった。


 一度だけ、からあげを噛みながらあの夜の続きを言いかけたことがある。

 口を開けたところで千夏が味噌汁の椀を置き、俺はそのまま味噌汁を飲んだ。


 三週目の夕食では、皿の並びを見ただけで、今日は何が足されるのか予想がつくようになっていた。

 当たると悔しい。当たらないと、もっと悔しい。


 千夏は予想が外れるように、ときどき俺の好物ではない一皿を間に挟んでくる。

 この人は試合に出るのをやめたくせに、駆け引きだけは上手い。


 マドリードへ発つ前の日、センターの体重計に乗った。

 選手は大会前に必ず体重を測る。STATUSに体重の項目はない。


 針が止まった。


 七十六キロ。

 二週間前は七十五キロだった。


 一キロだ。一キロというのは、テニス選手にとっては、地味に大きい。

 ラケットの重さに換算すると、およそ三本。


 もう一度乗った。七十六キロ。降りて乗り直した。

 七十六キロ。体重計は嘘をつかない。


 ベンチの前のこの体重計は、十七の秋に千夏が持ち込んだ白い四角いものだ。

 古い型で、針が少し揺れる。


 中学一年のときは、家の洗面所で量って四十二キロだった。今はその倍近い。

 この体重計に初めて乗った日から、針の揺れ方だけは変わらない。


「増えてる」


 声に出したら、後ろから返事があった。


「増えてるね」


 千夏だった。補食の入った紙袋を両手で持っている。

 体重計の数字を一秒だけ見て、それから俺の顔を見た。


「筋肉かも」


「脂肪。からあげの分」


「まだ分からないだろ」


「分かる。足したのは一日一品で、その半分はどこからも削ってないの。一キロなら計算どおり」


 千夏はポケットから折りたたんだ紙を出した。

 今週の献立表だった。赤鉛筆で何か所も丸がしてある。俺の好物の丸だ。


 二週間前より、一日あたり一品ずつ丸が増えていた。

 余白には千夏の字で、日付と体重の数字が毎日書き込まれていた。

 二週間前の七十五から、一日おきに小さく、じわじわと増えている。


 千夏はしばらく紙を見つめて、それから鉛筆で一本線を引いた。


「……一品、減らす」


「どれを」


「からあげ」


「それだけは」


「じゃあ、卵焼きも」


「それも」


 千夏が鉛筆を持ったままこちらを見た。目が笑っていた。


「じゃあ、走ろう」


 センターの窓の外は、五月に近い明るい空だった。


 千夏は献立表をたたんでポケットに戻すと、補食の紙袋を俺の胸に押しつけた。

 持つと中身はまだ温かかった。袋の口から、からあげの匂いがした。


 一品減らすのは、どうやら明日からだった。


 袋から一つつまんで口に入れた。

 千夏が下からこちらを見上げた。


「おいしい?」


「おいしい」

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