第146話 柏の空
インディアンウェルズとマイアミには、予定どおり出た。
初戦はあの夜の翌々日だった。コートに立つ以外にできることを思いつかなかった。
どちらの大会もドバイと似た数字で終わった。
マイアミでは大会の途中の日曜に、日本の選手たちが募金の箱を持って観客席を回った。
俺も一つ持って上の方の列を回った。箱は思ったより早く重くなった。
四月の初め、マイアミのあとの空白を使って柏に戻った。
成田から常磐線に乗り継ぐ間、車内の電気は半分だけついていた。節電のためらしい。
座席の人たちは誰も文句を言わず、暗い車内で携帯の画面を見ていた。
駅前の商店街は思ったより静かだった。
壊れているものはほとんど見えない。
ただ、店のシャッターが半分だけ開いていて、ネオンが消え、コンビニの棚には水と電池のところに空きがある。
町全体の声がいつもより二段くらい低かった。
もう一つ、町に増えていた話題があった。放射線量だ。
子どもを外で遊ばせて大丈夫なのか、という声が親たちの間で出始めていた。
家に荷物を置いて丹羽建設の現場へ歩いた。
駅の東側の道路で、地震で割れた歩道の直しが行われていた。
作業員の間を、作業着の男が歩いている。
ヘルメットの下の顔は日焼けしていた。伯父の建だった。
建は俺に気づいてヘルメットの縁に指を二本だけ当てた。それが挨拶だった。
それからすぐに背を向けて、若い作業員の肩を叩き、別の指示を出した。
この人が指揮をとっている現場は、声が大きくならないのに、人がよく動く。
現場の脇に折りたたみの椅子が一つ出ていた。
祖父が座っている。麦茶のペットボトルを膝に置いて作業を見ていた。
旗は立っていなかった。建が止めたのだと思う。
祖父が現場で旗を立てずにいるのを、初めて見た。
「来たのか」
「はい。少しだけ」
祖父はこちらを見ずに言った。
「現場がある。帰ってきたんなら、飯ぃ食ってけ」
どちらが先なのかは分からなかった。分からないまま頷いた。
センターの入口には消毒液と靴の裏を拭くマットが置いてあった。
前はなかったものだ。
ゲートの脇に小さな机があり、白い手袋をした職員が一人立っている。
手には灰色の測定器を持っていた。悠蔵がどこからか二台手に入れてきたものだという。
屋根のある練習場に入ると、美咲が待っていた。
ジャージの袖をまくってボールかごを足で押している。
「おにいちゃん、暇でしょ。手伝って」
「挨拶は」
「いらない。今日、子どもが二十人来るから」
美咲は大会を一つ休んで柏に戻っていた。
「ランキング、落ちるだろ」
「落ちるよ。でも、二十人来るから」
説明はボールを配りながらだった。
春休みの子どもを外で遊ばせるのを控える家が増えている。
公園で遊ぶ子どもが減った、と美咲は言った。みんな家の中にいる。
だからこの屋根のある練習場を昼から開ける。
「私が考えたんだ。悠蔵おじさんに言ったら、で、いくら損するの、って。損はしますって答えた」
「それで」
「まあ、いいんじゃない、だって」
悠蔵の声真似はあまり似ていなかった。
似ていないが、言い方の温度だけは合っていた。
悠蔵に何かを頼むと、いつもこうなる。
職員がゲートから練習場まで歩いてきて測定器を掲げて見せた。
画面の数字を美咲と俺に向ける。
「今日は大丈夫です」
何が大丈夫なのかは、専門家ではない俺には分からない。
ただ、この数字を毎日確かめて、毎日子どもたちの親に見せている人がいる。
センターは地震の夜にも、近所の人のために開けてあったとあとで聞いた。
電車が止まって帰れなくなった人たちが、更衣室の床に毛布を敷いて泊まったという。
電話で礼を言うと、悠蔵は笑った。
「お前に言われる前から、開けてたんだけどねえ」
俺が頼んだのは、開けてください、の一言だけだった。
中身を決めたのは、この人たちだ。
子どもたちが次々に入ってきた。
小学校の低学年から高学年まで、ばらばらだ。
マスクをした子、帽子を目深にかぶった子、親の手を離さない子。
ラケットを袋ごと抱えている子が多かった。値札がついたままの袋もあった。
最初のボールが美咲の手から飛んだ。
子どものラケットに当たって斜め後ろに飛んでいった。
全員が笑った。俺はそれを聞いてボールを拾いに走った。
ボールの拾い役からいつのまにか打つ役になっていた。
子どもたちはボールが返ってくることにまだ慣れていない。
一球ごとに拾う、構える、振る、外す、を繰り返している。
一番小さい子はラケットを両手で握っていた。
その一人とネットを挟んで向かい合った。小学二年生くらいの男の子だった。
目つきにちょっとした挑戦者の色があった。
「おじさん、テニスの人?」
「一応」
「上手い?」
答えに詰まった。
軽く打った。
相手がラケットを構えたところに、ボールを置くつもりで、ゆっくり山なりに。
男の子のラケットはそれを思い切り空振りした。
ボールはフェンスの手前に落ちて、転がった。
男の子が俺の顔を下から見上げた。
「おじさん、下手」
全員がこちらを見た。
離れたところで、美咲がボールかごの陰にしゃがみ込んで顔を隠した。
「下手に見えたか」
「ゆっくりすぎ。ぼく、当たらなかった」
当たらなかったのは、男の子のせいではなかった。
ボールが遅すぎたのでもない。
高さが少しでも狂うと、ラケットの縁に当たる。
回転が少しでも残ると、子どもの手の中で暴れる。
もう一度打った。今度は少し低く、少し前に。
男の子が当てた。
ボールは変な方向に飛んで、隣のコートの子の足元に転がった。
「やった!」
それから七球続けた。八球目で男の子は俺の顔をまた見た。
「おじさん、さっきより上手くなった」
「……下手に打つのは、難しいんだ」
男の子は分かっていない顔で頷いた。
思い出したのは、小学生の頃の試合だった。
一番低い項目だけで戦う縛りを作って、ふわふわのスライスばかり打っていた頃。
あのときの遅い球は、相手の打ちにくい場所に落ちればよかった。
今日の遅い球は、相手のラケットの真ん中に落ちなければならない。
男の子がもう一度両手でラケットを構えた。
九球目をそのラケットの真ん中へ置きにいった。
夕方になって子どもたちの親が迎えに来た。
ゲートの職員がまた測定器を出して、今日の数字を親に見せている。
親たちはその数字をよく見ていた。見て、頷いて、子どもの頭に手を置いた。
帰り際、さっきの男の子がラケットの袋を背負ったまま俺のところへ来た。
「おじさん、また来る?」
「来る」
「じゃあ、次は、ぼくが勝つ」
勝ち負けのない練習だったが、そう言われると、悪い気はしなかった。
子どもたちが帰った練習場に、ボールが散らばっていた。
ネットの下、フェンスの隅、ボールかごの脇。
俺はその一つずつを拾って歩いた。
拾いながら今日の一日を数え直した。
全豪の決勝よりもドバイの決勝よりも、ずっと多く笑っていた。
少しだけ、楽しい。
気づくと、ボールを一つ手に持ったまま立ち止まっていた。
窓の外の空が夕焼けになっていた。
癖で窓の上の庇を見たが、鳩は一羽もとまっていなかった。
数える鳩がいない分、柏の空の方が少し広く見えた。
手の中のボールをかごに入れた。
その夜、来週のモンテカルロに欠場の連絡を入れた。




