↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
145/148

第145話 三月

 インディアンウェルズの大会では、シードの選手に一回戦がない。

 俺の初戦は二回戦からで、明後日の土曜だった。

 練習を終えてホテルに戻ったのは夕方の六時過ぎだった。


 千夏は階下の部屋で初戦に向けた補食の下ごしらえをしている。

 この大会ではキッチン付きの部屋を別に一つ借りていた。


 デスクの上に備え付けの卓上カレンダーが立っていた。

 三月のページの十二日に丸がついている。俺の初戦の日で、千夏がつけた丸だ。

 その手前の十一日の升は白いままだった。


 日本はもう十一日になっている。


 十一日が何の日かを、俺は知っていた。

 前世のことはたいてい輪郭しか残っていない。この一日について残っているのも、日付と、昼過ぎだったことと、何が起きたかの大筋だけだ。細かいことは何も残っていない。


 言っても誰も信じない。

 未来を知っていると言って、信じてもらえる形で言う方法を、俺は持っていなかった。

 悠蔵に電話をかけて、今日は東北の方へ行くなと言うか。


 父に今日は家にいろと言うか。理由を聞かれた時点で答えがなくなる。

 答えのない忠告は、ただの疲れた人の独り言だ。


 それに悠蔵の帳簿には、理由の分からない指示を書く欄がない。


 結局、何も言わないまま今日まで来た。


 言わないでいる間に、何度か試しに口を開きかけたことは、あった。

 千夏に、母に、悠蔵に。


 母には正月に、東北に知り合いはいるかと聞いた。いませんよ、で話は終わった。

 三十歳の期限のときと同じで、俺の本当のことは、遠回りの質問の形にしかならない。


 カレンダーを元の向きに立て直して、千夏の書いた予定表を開いた。

 土曜の欄には補食の時刻と中身が十五分刻みで並んでいる。

 初戦の相手はまだ決まっていない。一回戦で勝った方が来る。

 千夏は二人分の映像を、どちらも同じ長さだけ見ておくと言っていた。

 俺の一日はたいていこの紙の上で先に終わっている。


 窓の外は砂漠の夕方で、山の影が駐車場の端まで伸びていた。

 この町は日が落ちると急に冷える。椅子の背には千夏が上着を一枚かけていってくれていた。


 階下から包丁の音が上がってくる。

 いつもと同じ、千夏の音だった。


 十時半を過ぎて、千夏が階下から上がってきた。

 下ごしらえは終わったらしい。手を洗い、タオルで拭きながらソファに座った。


 テレビをつけたのは千夏だった。次の対戦相手の試合を確かめるためだ。

 俺の試合の録画は見返さないくせに、俺の対戦相手の試合は、必ずチェックする。


 チャンネルを回していると、ニュースの画面で指が止まった。


 最初は何のニュースか分からなかった。

 アナウンサーが早口で何かを言っている。

 英語だった。画面の下に赤い帯が出て、その帯に日本、という文字があった。


 千夏のタオルを持つ手が止まった。


 地図が出た。日本列島の東の海が、赤く縁取られている。

 それから映像に切り替わった。


 映像の中身を、俺は一つずつ見ていたわけではない。

 目が追っていたのは、帯に流れる文字の方だった。日本時間の午後二時四十六分、とあった。


 日本の昼過ぎは、こちらの夜の十時前にあたる。

 時差の計算だけは会社員だった頃の癖で、やけに早くできた。早くできても、何の役にも立たなかった。


 千夏が両手で口を押さえた。


 声は出なかった。息だけが指の隙間から漏れた。


 俺は隣で画面を見ていた。


 知っていた。この日だということも、何が起きるのかも、大筋だけは。


 画面の中でアナウンサーが同じ言葉を二度繰り返した。

 千夏が口を押さえたまま、絞り出すように言った。


「……お父さん」


 千夏の父も母も柏にいる。柏はあの海から離れている。

 離れていると、頭では思った。


 思いながら携帯を握り直していた。まだ誰にもかけていなかった。


 映像がまた切り替わった。ヘリコプターの音が音声の下に流れている。


 千夏は口を押さえたまま動かなかった。俺も動かなかった。


 部屋の中にはエアコンの低い唸りだけがあった。

 窓の外では、砂漠の夜の空に星がいくつか出ていた。


 千夏が先に携帯を取った。藤代家の番号を押して耳に当てる。


 呼び出し音は鳴らなかった。短い信号音が続いて切れた。


「……つながらない」


 もう一度かけた。同じだった。もう一度。


 俺も自分の携帯で家にかけた。父の携帯、母の携帯、実家の固定電話。

 三つともつながらなかった。父の携帯は呼び出し音のあとで切れた。


 時計を見ると十一時だった。


 千夏はソファに座ったまま発信を押し続けている。

 藤代家の固定電話、母の携帯、父の携帯。三つを順番に何度でも。


 俺も同じことをした。三つを順番に何度でも。


 テレビはつけたままだった。音を消すと映像だけが動いていた。


 十一時十五分。十一時四十分。


 千夏が携帯を耳から離して画面を見た。


「メールは?」


「送った」


「あたしも」


 返事は来なかった。


 時計の針が進むのが遅かった。

 十二時を過ぎると、千夏は立ち上がって部屋の中を歩き、また座った。

 俺は発信を押し続けた。


 日本の回線が埋まっているのだろう、と理屈では分かった。

 安否を確かめる電話が一斉にかかっている。


 分かっていても、信号音が切れるたびに、親指はもう次の番号を押していた。


 十二時半。千夏の指が白くなっていた。


 一時になった。


 千夏が携帯を膝に置いた。


「……昼間、お母さんに、メールしたの」


「うん」


「今度の試合、見てね、って。それだけ」


 俺は何も言わずに千夏の隣に移って、肩に手を置いた。


 千夏は肩に手を置かれたまま、しばらく動かなかった。

 手のひらに体温が伝わってくる。


 二時になった。俺はまだ発信を押していた。


 二時半を過ぎて、俺の携帯が一度だけ短く震えた。


 画面に悠蔵と出ていた。メールで、本文は一行だけだった。


 全員無事。建設は動いてる


 悠蔵のメールはいつもこうだ。件名も挨拶もない。

 その一行で発信のボタンから親指が離れた。


「全員、無事」


 声に出して読むと、千夏の顔がこちらを向いた。


「全員って」


 千夏が言いかけたところで、千夏の携帯が鳴った。

 着信の表示はお父さん、だった。千夏は携帯を耳に当ててしばらく黙っていた。


 それから小さく、うん、と言った。うん、うん、と何度か言って顔を伏せた。


 電話の向こうの声がかすかに聞こえた。


「……無事だ」


 圭の声だった。それだけと言ってもいいくらい短い声だった。

 千夏の肩がゆっくり下がった。


 俺は携帯を持ったまま、もう一度悠蔵のメールを読んだ。

 机の上のカレンダーの丸が目の端に入った。


 返信を打った。


 賞金から寄付を。建設の現場に要るものを。

 センターは開けてください。


 送信を押した。三分もしないうちに返事が来た。


 了解。理由はいい


 悠蔵はいつもそう言う。

 この人は俺が何を知っていて何を知らないのかを、何も聞かない。


 株のときもそうだった。理由を聞かずに動いてくれる人が、一人はいたのだ。

 信じてもらえないから言わなかった、という説明が、急に薄く見えた。

 その下に何があるのかは、まだ見なかった。


 千夏が電話を終えてこちらを見た。目が赤かった。


「悠蔵さん、動いてくれてたんだね」


「うん。丹羽建設は、もう動いてる」


「……そっか」


 千夏はテレビの方に目をやった。映像はさっきと違う場所を映していた。

 音はまだ消したままだった。


 窓の外はまだ暗かった。みんな、無事だった。


 携帯を閉じる前にもう一度だけ悠蔵の返事を開いた。

 了解。理由はいい。画面の明かりが消えるまで、その一行を見ていた。


 千夏がリモコンを取ってテレビを消した。


「寝よう。明日は、試合でしょ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。