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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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144/145

第144話 【新世代】八羽

 ドバイの予選の二回戦で俺は負けた。

 四―六、三―六。相手は名前を聞いたことのない三十歳の選手だった。


 世界ランキングは二百六十一位。十九歳になったばかりだった。

 この順位の十九歳は世界中にいくらでもいる。二百六十一番目というのは、そういう数だ。


 コーチはいない。雇う金がない。

 国の協会から出る旅費は一年に六大会分で、ドバイはその三つ目だった。

 予選で負ければ、次の大会までの宿代は自分で出す。一泊ごとに残りの大会の分が削れていく。


 ロッカールームで荷物をまとめていると、大会の係員に呼び止められた。

 本戦の選手の練習相手が一人足りないという。


 一日あたりの手当と、宿の延長。

 頭の中で足し算をすると、宿代が三泊分浮いた。正直に言えば、それだけでありがたかった。


 それから係員は紙を見ながら相手の名前を言った。


「ニワ」


「はい」


 返事が早すぎた、と言ってから思った。

 係員は少し驚いた顔をして、紙に俺の名前を書き込んだ。


 宿に戻ってノートパソコンを開いた。

 外付けの記録装置の中にあの人の試合が入っている。


 十四の夏、テレビの短いニュースで初めて見た。

 日本人がハードコートで自分より大きな男たちを順番に負かしていた。


 それから五年、手に入るものは全部集めた。足すと三百時間を少し超える。

 二〇〇九年のウィンブルドンの決勝は昨日までに四十回見た。


 五セット目の、四時間を過ぎてからのラリーが一番いい。

 あの人の足の運びが一球ごとに少しずつ短くなる。短くなって、それでも届く。


 四十一回目を再生しかけて、やめた。

 明日の朝、本物が来る。


 練習は朝九時、センターコートの三十分の枠だった。

 八時半に着いてネットの前で待った。


 あの人は八時五十八分に来た。

 大きなラケットバッグと、保冷の箱を持った女の人が一緒だった。


「ありがとう。来てくれて」


 あの人は英語でそう言って手を差し出した。

 握手は短かった。目は一度だけ俺を見て、すぐにコートの方へ移った。


 最初の五球は返せなかった。

 映像で知っている球だった。知っているのにラケットが間に合わなかった。


 画面の中の球は画面の大きさでしか来ない。

 本物は思っていたより一つ分重かった。


 六球目から返るようになった。

 返った球は全部が同じ場所に打ち返された。俺のバックの、少し深いところ。


 俺が一番打ちやすい高さだった。

 打ちやすい場所に打ちやすい速さで、何度でも返ってくる。


 練習の相手として、これ以上の相手はいない。

 ただ、その球のどこにも、俺を負かそうとする気配はなかった。


 こちらが何を打っても、あの人の顔は変わらない。

 変わらない顔で、正しい場所に正しい球を返す。


 十分たって気づいたことがある。

 テイクバックで、あの人の肘は肩より少し高い位置で止まる。


 打ったあと、右足が半歩だけ前に出る。

 映像ではカメラの角度で一度も見えなかった半歩だ。三百時間の録画のどこにも、一コマも入っていない。


 水を飲む休みに、あの人はベンチに座って上を見た。

 観客席の上に張り出した屋根の縁だった。


 俺も見た。鳩が並んでいた。


 保冷の箱の女の人が俺の方へ来た。

 朝ごはんは食べたかと英語で聞かれた。


「はい」


 嘘だった。宿の朝食は九時からだった。

 答えたのと同時に腹が鳴った。センターコートの真ん中で、よく響いた。


 女の人は黙って箱を開け、バナナを一本差し出した。


「嘘。だめ」


 片言の英語だった。俺は、はい、と言って受け取った。

 ベンチのあの人は、こちらを見ないままタオルで口元を隠していた。


 三十分が終わって、あの人はもう一度握手をした。


「いい球だ」


 それだけ言ってコートを出ていった。

 いい球は三十分で七本しか打っていなかった。


 準決勝は選手席の一番上の列から見た。

 練習相手にはその列の端が割り当てられていた。チケットを買えばたぶん一番安い列だ。


 あの人の試合は映像で見るより静かだった。


 サーブを打って、返ってきた球を打って、相手の届かない場所に落とす。


 相手の顔がゲームを重ねるごとに少しずつ下を向いていく。

 見ていて苦しくなった。相手の方を見ていたからだ。


 チェンジコートで、あの人はタオルを顔に当てた。

 タオルの隙間から、目が屋根の縁を見ていた。


 俺も見た。六羽。


 次のチェンジコートでも、あの人は屋根を見た。俺も見た。六羽。

 その次は一羽が降りてきて七羽になった。


 三回目で分かった。

 あの人は試合を見ていない。鳩を数えている。


 腹は立たなかった。立たないことに自分で驚いた。


 世界で一番強い人が、世界で一番退屈そうな顔で、屋根の鳩を数えている。


 ネットの向こうに見るものが何もないのだと思った。

 今朝の三十分に打った俺の球も、あの人の見るものには入っていなかった。


 十四の夏にニュースで見たあの人は、自分より大きな男たちに怖い顔で向かっていった。

 四十回見た芝の決勝のあの人は、四時間を過ぎてもボールしか見ていなかった。


 画面の中のあの人と、今ベンチに座っている人は、同じ人のはずだった。


 最後のチェンジコートでもう一度数えた。

 八羽。左端の一羽だけ首の色が濃い。

 あの人も同じ一羽を見ていたはずだ。


 いつか、と思った。

 いつか、あのベンチの人が屋根を見上げなくていい球を、ネットのこっち側から打つ。


 勝ちたいとは、まだ思えなかった。


 見てほしい、の方が近かった。


 夜、宿のベッドで大会の会見の映像を見た。

 誰かが動画のサイトにもう上げていた。再生回数はまだ三百にも届いていない。


 同じ質問に同じ答えが続く。

 あの人の英語は丁寧で、どの答えも、どこかで聞いたことのある形をしていた。


 十一分を過ぎたところで、後ろの方の若い記者が手を挙げた。


「……八羽です」


 俺はベッドの上で声を出して笑った。

 隣の部屋の壁が、どん、と一度鳴った。


 この答えの意味が分かるのは、世界中で俺とあの人の二人だけだ。

 画面の中の記者たちは顔を見合わせていた。笑っているのは、この部屋の俺だけだった。


 鉛筆を取ってノートの一番新しいページに書いた。


 八。


 それからその下に今日見た半歩のことを書いた。

 肘の高さのことも書いた。いい球だ、と言われたことは書かなかった。


 書いたら、明日から嬉しくて練習にならない。

 七本のうちのどれのことだったのかも分からない。


 外付けの記録装置をつないで、二〇〇九年の決勝を最初から再生した。

 四十一回目だった。


 今夜からは見方が一つ変わる。

 あの人の球ではなく、あの人の足を見る。半歩の出る場所を一球ずつ止めて確かめる。


 屋根は一度も映らなかった。

 あの日のあの人は、四時間半、一度も上を見ていない。

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