第143話 鳩
二月のロッテルダムでは決勝まで一セットも落とさなかった。
二週後のドバイでも決勝まで一セットも落とさなかった。
同じ文を二度書いたのではなく、同じことが二度起きた。
ロッテルダムの数字を並べると、一回戦が六―一、六―二。二回戦が六―二、六―〇。
準々決勝が六―二、六―二。
その先もドバイも似たような数字が続く。
並べていた本人がここで先に飽きた。
サーブを打ち、返ってきた球を打ち、相手の届かない場所に落とす。
ときどき相手の届く場所に落ちるので、もう一度打つ。
それだけだ。
ロッテルダムの一回戦の相手は、試合後の握手で「いい経験になった」と言った。
ドバイの一回戦の相手も同じことを言った。
経験というのは、ふつう負けたあとに残るものだ。
俺と打った全員に経験だけが残っているのなら、世界中のテニス選手が経験豊富になっていく。
ランキングは一位のままだった。二位との差は計算するのをやめた。
決勝の相手はどちらも去年ならフルセットを覚悟した顔ぶれだった。
試合前の握手では二人とも目を合わせてくれた。
試合後の握手では二人とも目を合わせてくれなかった。
ドバイの決勝の相手は、握手のあと自分のベンチに戻り、ガットのずれを一本ずつ指で直していた。
表彰式の係が呼びに来るまで、ずっと直していた。
朝に起きて補食を食べ、練習して試合をして、氷で冷やして夕食を食べて寝る。
千夏は毎日献立を変えてくれるので、変わっているのは献立だけだった。
退屈な試合の話は、これくらいでいい。
半月後には砂漠の国からカリフォルニアの砂漠へ移る。
ドバイのセンターコートには、観客席の上へ張り出した屋根がある。
その縁に鳩がとまっていた。
砂漠の国の鳩は、暑さを避けて日陰に並び、首を引っ込めて動かない。
最初に数えたのは、一回戦の第一セットが終わったチェンジコートだった。
ベンチに座ってタオルを顔に当て、隙間から屋根を見た。
七羽。
理由は特にない。コートの中に見るものがなかった。
コートの中を見れば、次のゲームで何が起きるかは分かっている。
相手のサーブは右のコーナーに寄る癖があるから、返して前に詰めてボレーを置く。
分かっていることをもう一度確かめる意味はないので、屋根を見る。
次のチェンジコートでもう一度数えた。八羽。
一羽増えている。その次のチェンジコートでは、一羽が飛んで七羽に戻った。
鳩は屋根の上でだけ増えたり減ったりしていて、この大会でいちばん予測のつかないものだった。
二回戦から決勝まで、毎試合、毎チェンジコートで数えた。
数えるうちに左端の一羽だけ首の羽根の色が濃いことに気づいた。
準決勝の第二セットの途中でその一羽がいなくなり、次のチェンジコートには戻ってきていた。
スコアは言えても、どんなポイントだったかは一つも出てこない。
なのに何ゲーム目にあの一羽が飛び立ったかは、はっきり覚えている。
試合より鳩の数の方を覚えているというのは、たぶん人としてあまりよくない。
準決勝の最後のチェンジコートで数えたのは八羽だった。
決勝は九羽で、ドバイの鳩の最高記録になった。
記録が残るのは俺の頭の中だけで、大会の公式記録には載らない。
数え方には途中から決まりができた。
飛び立ったものは引き、舞い戻ったものは足す。
同じ一羽が二度戻ってきたときの数え方は決まっていない。
決めていないのに毎回同じ数になるのが、少し腹立たしかった。
一度だけ審判がこちらを見た。
天井を見上げているのを、集中を切らしているのだと思ったのだろう。
切れるほどの集中は最初からしていなかった。
ドバイの記者会見場は、冷房が効きすぎていた。
「今日の勝因は」
一回戦から準決勝まで同じ質問が来る。会見場が変わっても、通訳が変わっても。
「一球ずつ、集中して打てたことです」
記者は頷いてノートに書く。通訳が訳し、別の記者が頷く。
正直に言えば、勝因は相手より全部が上だったことだ。
これをそのまま答えると翌日の見出しが困るので、毎回この言い方をしている。
もう三十回は言った。そのうち二十回は、言いながら別のことを考えていた。
準決勝の日の会見も、いつもどおりに進んでいた。
試合の感想、千夏への感謝、半月後のカリフォルニアの意気込み。
全部同じ引き出しから出せる。
答えている間、頭の半分はまだ屋根の縁にいた。
そのとき、会見場の後ろの方で若い記者が手を挙げた。
見慣れない顔だった。
「今日、コートで何が見えていましたか」
質問が違った。引き出しに入っていない質問には、正直な答えしか出てこない。
「……八羽です」
言ってから、会見場が静かになった。冷房の音だけが聞こえる。
通訳の女性が訳す前に俺の顔を見た。俺は顔を動かさなかった。
「……は?」
若い記者が間の抜けた声を出した。ほかの記者が顔を見合わせている。
最初の一秒で取り返しがつかないと分かった。
次の一秒で取り返す方法を考えた。三秒目に口が動いた。
「いえ。相手の、足です」
誰も何も言わなかった。通訳が小さな声で訳した。
ノートに書く音がいくつか聞こえた。
翌日の記事には、「丹羽は相手の足元を見ている」と書いてあった。
足元は一秒も見ていなかった。
決勝の夜にその話をすると、千夏は箸を置いてテーブルに額をつけた。
しばらく声も出さずに笑い、顔を上げてから「今日の鳩、何羽だった」と聞いた。
九羽、と答えるとまた笑った。
ホテルの部屋の窓からドバイの夜景が見えた。
高い建物の灯りが砂漠の地平線の手前までずっと続いている。
千夏は隣の部屋で明日の食材のリストを確かめていて、ときどきペンの音が聞こえた。
窓際の椅子に座り、【STATUS】を開いた。
金特のついた項目はSSのまま、ほかの項目は九十九の天井に張りついている。
金特は四つになっていた。九十九の先は百までしかない。
スピードは電光石火、レスポンスは千里眼。
前世でやっていたゲームのような名前だった。名前を確かめたのは出た夜の一度きりだ。
閉じて開き直しても、どの数字も動いていなかった。
金特が増えるのは悪いことではない。ただ、面白いかと言われると返事に困る。
三十歳まであと何年。四大大会まであと何回。
あの頃は数えるものがいつも先にあって、数えたくなくても数えずにはいられなかった。
今は数える必要のあるものがない。ないから、屋根の上の鳩を数えている。
窓の外で遠くの窓の灯りがひとつ消えた。
隣の部屋のペンの音が止まって、ドアが開いた。
「たくま、明日、朝ごはん何がいい?」
「何でもいい」
言ってから、しまったと思った。
何でもいい、は千夏がいちばん困る答えだった。
千夏は少し黙って、それから「分かった」と言ってドアを閉めた。
翌朝の皿には何でもよくなさそうな品数が並んでいた。
それを食べながら、千夏が手帳に何か書き足していた。
覗くと、俺の好きなものと最近あまり箸をつけないものの、二つの欄があった。
二つ目の欄が昨日より一行増えていた。




