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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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148/148

第148話 【千夏】あけておく欄

 朝の五時に台所の電気を一つだけ点けた。

 たくまはもういない。柏にいる朝は暗いうちからセンターの壁の前に立っている。


 いちばん新しいノートを開いた。

 表紙には、たくま、と書いて、その下に通し番号がふってある。


 中三の秋からずっと同じ書き方だ。

 日付、天気、体重、朝昼晩と補食の中身、食べ残したもの。


 昨日の欄を埋めていって、最後の行で手が止まった。


 夜。台所。楽しい?


 あたしが聞いた言葉をそのまま書いた。


 その下に答えの欄を一行あけた。

 あけたまま、次の行に進めなかった。


 聞くつもりはなかった。

 玉ねぎを刻んでいたら、口が先に動いていた。


 ドバイの夜、鳩の話を聞いたときは笑った。

 会見で八羽と答えたと聞いて、箸を置いて笑った。笑いすぎてお腹が痛くなった。


 次の日の朝、ホテルの部屋でひとりで泣いた。


 小さいころからたくまはいつも何かを数えていた。

 公園の壁に当てた球の数。梅干しの数。三十まであと何年。

 あたしはその横で数えている顔を見ているのが好きだった。


 その数えるものが去年の秋あたりから、一つずつなくなっていった。

 最後に残ったのが、屋根の鳩だった。


 ボックス席から見るあの人の背中は、どの大会でも同じ角度をしていた。

 勝っても負けかけても、肩の高さが変わらない。


 昔は違った。

 中二の春、あたしと本気で打った日のたくまは、一球ごとに肩が上がって、下がった。

 あたしが一ポイントも取れなかった試合なのに、あの人の肩はずっと忙しかった。


 鉛筆の先で答えの欄を軽く叩いた。

 あけておくことにした。


 昼すぎに実家へ鍋を返しに行った。

 先月借りた土鍋だ。返すのは口実で、たぶんお父さんの顔が見たかった。


 お父さんは縁側に座って庭を見ていた。

 膝の上に昔の試合のビデオのケースが一つ載っている。


 去年の夏にたくまのコーチを降りてから、お父さんはときどきこうしている。

 見るでもなく、しまうでもなく、ケースだけ膝に載せている。


 隣に座った。

 しばらく二人で庭の柿の木を見ていた。


「お父さん」


「ん」


「テニス、楽しかった?」


 お父さんはすぐには答えなかった。

 膝の上のケースを指で一度だけ叩いた。


「……一つだけ言う」


「楽しかったのは、勝てるか分からない試合だけだ」


「勝てる試合は?」


「仕事だ」


 それから少し黙って、お父さんは続けた。


「負けると分かってる試合も、仕事だ。どっちも、身体は動く。動くが、楽しくはない」


 台所からお母さんがお茶を持ってきた。

 湯のみを二つ縁側に置いて、立ち上がりながら言った。


「お父さん。二つ目ですよ」


 お父さんは黙ってお茶を飲んだ。お母さんは台所へ戻っていった。

 あたしは笑うのをこらえて湯のみで顔を隠した。


 お父さんの最後の全日本を、あたしは客席の一番前で見ていた。八歳だった。

 負けた試合だった。負けたあと、お父さんはしばらくベンチから立たなかった。


 あの日の顔を悲しい顔だと思っていた。

 今日、少し違うかもしれないと思った。


 たくまにはもう、勝てるか分からない試合がない。


 作るものなら、あたしは作れる。

 献立も補食も遠征先の台所で一から作る。けれど、勝てるか分からない試合は、台所では作れない。


 お父さんの言ったことを、あたしはたくまに伝えないことにした。

 これはあたしが渡していい言葉じゃない。


 夜、たくまがお風呂に入っているあいだに自分の手帳を開いた。


 献立のノートとは別の、小さな手帳だ。


 後ろの方のページに小さな丸が並んでいる。

 月に一つずつ。献立とは関係のない丸だ。


 結婚して一年と少しになる。

 去年の夏、ロンドンからの帰りの飛行機で、窓の外を見たまま言ったことがある。


 いつか。子ども。


 たくまは、うん、と言った。

 あの人は約束をしない人だから、あの一言が、あの人なりのいちばん強い返事だった。


 今月も丸は一つ増えただけだった。

 丸の横には何も書かなかった。


 まだ焦るような時間じゃない。

 お医者さんに行くような話でも、まだない。


 ただ、数えている。

 たくまが数えるのをやめた分を、いつのまにか、あたしが数えている。


 大学の栄養の授業では身体のことを数字で習った。

 数字にすれば、たいていのことは計画が立つ。立たないものがあることもちゃんと習った。

 習ったことと手帳の丸を数えるのは、別のことだった。


 体重。食べ残し。丸。

 数えるのはもともとあの人の癖だった。うつったのかもしれない。


 お風呂場の方からシャワーの止まる音がした。

 手帳を閉じて鞄の一番底にしまった。


 鞄を閉めながら思った。

 あの人が答えられない質問を、あたしは一つ、持っている。


 子どものことを、たくまはあの飛行機の日から一度も聞いてこない。

 聞かれたら、あたしもすぐには答えられないと思う。

 それで、おあいこだ。


 翌朝から献立を一品ずつ足した。


 栄養の計算はした。足した分の半分はほかのところで削る。からあげの日は、ほかの揚げ物をやめる。

 残りの半分は削らない。あの人の身体なら、一キロまでは走って戻せる。


 理由は書かなかった。

 ノートの欄にも、冷蔵庫の献立表にも。


 聞く代わりに、皿を置く。おいしい、なら、あの人も答えられる。


 からあげを揚げていると、たくまが台所の椅子に座った。

 何も言わずに油の音を聞いている。


 揚がった一個目を菜箸でつまんで味見をした。

 熱かった。二個目も味見をした。


「二個目は、味見じゃない」


 たくまが言った。


「確認」


「何の」


「一個目が、ほんとにおいしかったかどうか」


 たくまは笑った。

 笑った顔を、あたしは久しぶりに正面から見た気がした。


 三個目に手を伸ばしたら、たくまの手の方が先だった。

 揚げたての一個を指先で持て余しながら、口に入れた。


「熱い」


「確認した?」


「確認した」


 それで、からあげの皿は食卓に出る前に三個減った。


 その晩、ノートのあの夜の欄をもう一度開いた。

 笑った、と書きかけて、消した。


 答えの行はあけたままにした。埋めるのはあたしじゃない。


 いつか、あの人が自分で埋める日が来たら、そのときは隣で読む。


 来なくても、あけておく。

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